シュリー・ラーマクリシュナ
Sri Ramakrishna
(通称;タクール)
(1836年2月18日~1886年8月16日)近代インドの聖者。本名はガダーダル・チャットーパーディヤーヤ。ベンガルの貧しいバラモンの家に生まれ、学校教育はほとんど受けていない。幼時からさまざまな神秘体験をした。17、18歳でコルカタに出て、祈祷(きとう)や祭式の仕事をしていたが、21、22歳のころ、ダクシネーシュワルのカーリー女神を祀(まつ)る寺院の役僧となった。その後12年間、彼は世俗を捨てた生活を送り、ヴェーダーンタ哲学やビシュヌ派の諸聖典の研鑽(けんさん)に努めた。その結果、神秘的交感のうちにカーリー女神やその他のヒンドゥー教の諸神との合一を達成でき、自らを神の化身(けしん)と考えるようになった。その後もイスラム教やキリスト教に接近し、それぞれの宗教の修行を積み、さまざまな神秘体験を得、ついに『あらゆる宗教において神に至る道が同一であること』を確信した。このような体験と確信に基づいて神のことばと真理を語り始めた彼のもとに多くの民衆が集まり、1875年ごろにはベンガル地方の大きな宗教勢力となった。しかし、局地的な存在にすぎなかった彼の名を世界的にしたのは、82年に彼の弟子となったスワーミー・ヴィヴェーカーナンダである。スワーミー・ヴィヴェーカーナンダはシュリー・ラーマクリシュナの死後、その名を冠したラーマクリシュナ・マト・アンド・ミッション、通称ラーマクリシュナ・ミッションを設立して、世界に向けての組織的な伝道活動を行った。
シュリー・サーラダー・デーヴィー
Sri Sarada Devi
(通称:ホーリー・マザー)
(1853年12月22日 ~ 1920年7月20日)シュリー・ラーマクリシュナの霊性のパートナーである。当時のインドの一般的な慣習に従い、彼女は6歳の頃にシュリー・ラーマクリシュナの許嫁となった。18歳で、約100km離れたコルカタに程近いダクシネーシュワル(現在はコルカタに編入)のカーリー寺院に住む彼女の婚約者と生涯を共にするために、生まれ故郷のジャイラーンバーティーを発った。その頃、シュリー・ラーマクリシュナは霊性修行と修行僧としての生活に、自己の精神と肉体を捧げていたが、それでも、彼は非常に親切にサーラダーを迎えた。神の意志が彼女をここまで連れてこさせたのを感じたからである。シュリー・サーラダー・デーヴィーは、霊的・知的なリーダーとしての才のある人物であった。彼女は、長きに渡りシュリー・ラーマクリシュナと彼の弟子に仕えた。シュリー・ラーマクリシュナが死去した後も彼女は宗教的な奉仕を続け、新しい霊性運動において感化と指導に勤めた。彼女は地味で控え目な女性であったといわれているが、シュリー・ラーマクリシュナによって始められた運動の重要性は高まり続け、英国の植民地支配の弱まった時期には大きな影響力を持つようになった。シュリー・ラーマクリシュナは死去する前に、彼の弟子に、彼女をあたかも彼らの母親であるかのように見なすことを奨めた。そして、彼女は人類の母としての役割を果たした。彼女は彼らを養育し、私事を手伝った。さらに彼女は、全ての訪問者のためのシュリー・ラーマクリシュナの教えの重要な説明者・教師であった。
スワーミー・ヴィヴェーカーナンダ
Swami Vivekananda
(通称:スワーミージー、[出家前]ナーレン)
(1863年1月12日 ~1902年7月4日)インドの宗教家。
ヨーガとヴェーダーンタ哲学の霊的指導者としてインドを中心として、アジア諸国、西側諸国の人々に影響を及ぼした。1893年5月31日(当時30歳)、ムンバイを出港し、日本を含めたアジアを経由し、横浜港からカナダのバンクーバーへ渡り、7月中旬、汽車でシカゴに到着した。
そして同年9月11日、世界宗教会議第一回集会は始まった。彼は原稿を何も用意していなかった。「アメリカの姉妹たち、兄弟たち」という言葉でスワーミージーが講演を始めると、拍手が会場を包んだ。彼はシュリー・ラーマクリシュナの教えを継承した普遍宗教の理想を語った。演説は大成功を収め、新聞に掲載された。彼はシュリー・ラーマクリシュナの一番弟子であり、ラーマクリシュナ・マト(僧団)とラーマクリシュナ・ミッション(奉仕団)の創設者である。彼は師の教えを霊性と知性によって体系化し、世界に通じる言葉として発信した。