今月のニュースレター

 

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ヴェーダーンタ協会ニュースレター(日本語版)

日本ヴェーターンタ協会の最新情報

20253月 第23 巻 第3

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かく語りき

 

ラーマクリシュナ・パラマハンサの生涯の物語は、宗教の実践の物語です。彼の生涯は、私たちが神と対面することを可能にします。

…マハートマー・ガンジー

 

しじゅう、「私は自由だ、私は自由だ」とくり返していると人はほんとうに自由になる。これに反して、絶えず「私は束縛されている、私は束縛されている」とくり返していると、その人は確実に世俗に縛られる。「私は罪びとで、罪びとで」としか言わない馬鹿者は、ほんとうに世俗に溺れてしまうのだ。人はむしろ「私は神の御名をとなえた。どうして罪びとなどでありえよう。縛られるはずがないではないか」というべきである」

…シュリー・ラーマクリシュナ

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目次

・かく語りき――聖人の言葉

・お知らせ

20255月の生誕日

20241215日 月例講話 

三種類の喜び 後半

スワーミー・メーダサーナンダ

202511

カルパタルの日についての話し

スワーミー・メーダサーナンダ

2025119日ホーリー・マザー生誕祝賀会

ホーリー・マザーについての話し

スワーミー・メーダサーナンダ

・忘れられない物語

・今月の思想

 

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お知らせ

・各プログラムに参加を希望される方は、協会までご一報ください。

・日本ヴェーダーンタ協会の行事予定はホームページをご確認ください。

https://www.vedantajp.com/

 

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20255月生誕日 

ニュースレター作成時点では確認できませんでした。

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20241215日 月例講話

 

「三種類の喜び」 午後の部

スワーミー・メーダサーナンダ

 

[午前の部では;〈ヴィシャヤーナンダ〉:有限で一時的な外の世界で私たちが見つける喜び。〈バジャナーナンダ〉:神の名を繰り返し唱えたり、神について話したり、聖典や神の教えを読んだり、賛歌を歌うことから得られる喜び。〈ブラフマーナンダ〉:内側から出る喜び。これら三種類の喜びについての説明がありました]

 

サットワ的スカやブラフマーナンダが何であるかを知らない人、絶対的な喜びが何であるかを知らない人、そして外的な楽しみの源が、私たちに永続的な幸福を与えられないことを知らない人は、不満を抱いたまま人生を終えます。しかし、絶対的な喜びと一時的な喜びの違いを知りながら、それを得るための努力ができない人は、より大きな失望感をいだきます。実際、ほとんどの霊性の修行者は、内なる喜びを得るために全力を尽くすほどの意欲がありません。なぜでしょうか?

 

理由の一つは、マーヤーが、私たちに「強いやる気」を持つことを許さないことです。そうしないと、マーヤーのお遊びが終わってしまうからです。これは哲学的な答えの一つです。しかし、多くの人には納得できないかもしれません。

 

もう一つの理由は、世俗的な喜びを楽しむ、という非常に深く長い経験が私たちにあることです。その根強いサンスカーラは私たちの喉元まで満たされています。そのため、霊的なサンスカーラが入り込もうとすると、喜びのサンスカーラがそれを押し出すのです。『シュリー・ラーマクリシュナの福音』によく似た例があります。あるマザー・カーリーの信者が強制的にイスラム教に改宗させられ、「カーリー」の代わりに「アッラー」の名を唱えるように命じられました。この哀れな男性は仕方なく、「アッラー」を唱え始めました。しかし、「アッラー」を数回唱えた後、カーリーの名が内側から現れました。彼にアッラーの名を繰り返させるのが任務のイスラム教徒の警官が彼に向かって叫びました。哀れな男は言いました、「どうしようもないのです。私はアッラーの名を唱えようとしているのですが、私の中のカーリー女神があなたのアッラーを押し出すのですから」

 

私たちの心は初めのうちは霊的な食物を受け入れませんが、私たちは自分の心と交渉し、神聖で高貴な考えを心に植え付けなければなりません。私たちはこれをチャレンジとして受け入れなければならないのです。そうです、これが奮闘努力です。

 

ある音楽教師の話を思い出します。一人の若者が彼のところに来て、古典音楽を教えてほしいと頼みました。教師は「音楽の訓練を受けたことがありますか」と尋ねました。生徒が「いいえ」と答えると、教師は幾ばくかの授業料で彼に教えることに同意しました。数日後、別の生徒がこの教師のもとに来ました。しかし、この生徒は以前に音楽の訓練を受けたことがありました。この場合、教師は前の生徒の2倍の授業料を請求しました。教師は、「料金が高くなるのは、これまでに訓練を受けたことのある生徒には、以前のレッスンを忘れさせるための努力をしなければなりません。その後で初めて、新たに教えることができるからです」と言いました。

 

シュリー・ラーマクリシュナの出家直弟子の中で、スワーミー・アドブターナンダジーに教えるのはより簡単でした。なぜなら、彼は教育を受けたことも、哲学書も聖典も読んだこともなかったので、心に色がついていなかったからです。

 

二つ目の理由は、私たちの心の中には、より多くのラジャスとタマスがあるということです。また、最近では、すぐに結果を得たがります。このごろは、インスタント・ティーやインスタント・コーヒーがあります。しかし、霊的生活において、進歩は一夜にして得られるものではありません。聖典は、霊的成熟に達するには、多くの場合、幾生もの人生が必要であると言います。これが、やる気が欠如するもう 一つの理由です。

 

もう一つの理由は、世俗的なことをやり遂げたいときには、しなければならない努力は何でもします。たとえば、学生は大学で学位を取得する前に数年間、猛勉強します。オリンピックのメダルを獲るために、選手は毎日何時間も練習をします。それなのに、なぜ私たちは長期間、継続的に努力を続けることをせずに、霊的分野で望ましい結果をすぐに得ることを期待するのでしょうか。毎日いくらかの時間を霊的実践に費やすことなく、信仰や心の純粋さを得ることを期待できますか?

 

瞑想を始めて数日後、信者は「なぜ心が集中しないのだろう? なぜ集中力が得られないのだろう?」などと不満を言います。私たちは、これまで何年もの間、自分の心の望む方向に進んできたのだから、瞑想を始めたからといって、ほんの数日で大きな集中や集中力が得られるのは期待できない、ということを理解する必要があります。さらに、一日中、世俗的な考えや行動に時間を費やしていると、瞑想に割り当てられた時間内に瞑想のできる深さに達することは期待できません。

 

アメリカで、かつてメディアがスワーミー・ランガナターナンダジーにインタビューをしたことがありました。当時、シタールの巨匠パンディット・ラヴィシャンカールが大変有名になっていました。インタビュアーの一人がマハーラージに「さて、どうすれば霊的体験が得られますか?」と尋ねました。マハーラージはこう答えました。「そのためには、毎日、霊的修行と一連の修行をしけなければなりません」 マハーラージが「修行」と言った瞬間、インタビュアーは「いいえ、私たちは修行が好きではありません」と反応しました。するとマハーラージは「ラヴィシャンカールのことをご存じですか?今日、皆さんが魅了されているシタールの音楽を演奏するために、彼がどれだけ多くの歳月を練習に費やしてきたか知っていますか?」と言いました。つまり、人々は、特に霊的生活においては、必要な努力をせずに、成果だけを求めているのです。

 

また、私たちが住んでいる環境は非常に世俗的なので、やる気を維持するのはとても難しいです。日本では、ほとんどの人が宗教や霊性に興味がないため、誰かが霊的な修行をしようとしたり、霊的な場所に行き始めたりすると、周りの人はその人がまるで気が狂ったかのように奇妙な目で見ます。そのため、日本のような国で霊的生活を送ろうとすることは、流れに逆らうようなものです。

 

かつて私は神道の儀式に参加する機会がありました。その儀式では、行列をつくり、神輿を担いで歩きます。時々、どこかの場所で立ち止まってお酒を飲みます。私はその行列に参加していました。一人の若者が私に、私が誰なのかと尋ねました。私はインドから来た僧侶だと自己紹介し、僧侶の生活について話しました。しかし、私たちは結婚せず、独身だと言ったとき、彼は非常に驚いていました。つまり、霊的生活のために結婚しないことは、多くの人々にとって奇妙なこととみなされているのです。宗教指導者の中には、イエスが結婚しなかったため、イエスを不完全な人物とみなす人もいます。

 

この問題は家族にも見られます。家族全員が霊的生活に深い関心を持っている家族も確かに存在します。しかし、それはまれです。多くの場合、霊的修行をする人は、霊性に興味のない人々から奇妙な目で見られます。したがって、私たちの時代では、霊的修行を続けることは流れに逆らうようなものです。しかし、誠実で強い心の持ち主は、他の人からの批判を気にしません。彼らは忍耐強く、続けるでしょう。

 

『ラーマクリシュナの福音』の記録者であるマヘンドラナート・グプタ、通称Mさんが、シュリー・ラーマクリシュナと過ごすためにドッキネッショルに通い始めたとき、Mさんの妻はそのことが気に入らず、激怒して、夫がそこに行くのをやめなければ自殺する、と脅しました。Mさんがそのことをシュリー・ラーマクリシュナに報告すると、シュリー・ラーマクリシュナは、「自分の妻がこんなことを言うなら、そんなひどい妻とは関係を続ける必要はない」と言いました。さらにMさんは、「もし母親が息子に聖者を訪ねることを禁じたらどうしたらよいでしょうか?」と尋ねました。シュリー・ラーマクリシュナは、「そのような母親はアヴィディヤー(無知)の化身だ」と言いました。それから彼は、「他のすべての面では両親に従いなさい、しかし、両親があなたの霊的生活の邪魔をするなら、彼らに従わなくても害はない」と詳しく述べました。シュリー・ラーマクリシュナはまた、これを裏付けるような例を、聖典プラーナから示しました。例えば、バーラタは、ラーマのために母親のカイケーイーに従いませんでした。 ゴーピーたちは、クリシュナを訪ねることを禁じられたとき、夫に従いませんでした。プラフラーダは、神のために父親に背きました。

 

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202511日 逗子本館

「カルパタルの日についての話し」

スワーミー・メーダサーナンダ

 

今日は特別な日です。2025年の元旦です。この日をシュリー・ラーマクリシュナの信者は、カルパタルの日としても祝います。なぜなら、師が亡くなる前の188611日に、師は信者の霊的な悟りを祝福したからです。カルパタルは伝説の木で、この木の下に座ると、どんな願いも叶うと言われています。ここでは、シュリー・ラーマクリシュナご自身がカルパタルの木です。つまり、師に祈れば、霊的願いが叶うのです。

 

多くの人々の間では、新年の日にいくつかの決意を表明し、それを実行しようとする、という習慣があります。私たち信者にとって、決意とはどのようなものであるべきでしょうか? 昨年、私たちは「毎日、少なくとも10分間は瞑想に座ろう」と決意しました。それは心をコントロールするのに役立ちます。言うまでもなく、瞑想には他にも多くの利点があります。なぜなら、今日、私たちの世代の主な問題は、集中力の低下だからです。特に、携帯電話やインターネットをたくさん使っているので、多くの目移りがあります。さらに、私たちの忍耐力、根気強さ、自信はすべて低下しています。決意に加えるべきことの一つは「内省」です。これは私たちの人生に非常に重要です。私たちは、毎日しばらくの間、内省を実践すべきです。なぜなら、現代の世代は、思考と行動のほとんどが表面的だからです。私たちの考えと活動には深みが欠けています。ですので、私たちの決意は、「浅くではなく、深くなろう」にするべきです。

 

また、私たちは時々、考えなしに他人を真似してしまいます。真似するのではなく、よく考えてから他人の良いところだけを吸収しましょう。真似ることは考えのない行為ですが、吸収することは考えのある行為です。

 

羊の群れでは、最初の羊がやったことに従うことが習わしとなっています。羊の群れは、最初の羊がやったことを盲目的に真似するのです。最初の羊の前に小さな障壁を置いたとします。最初の羊はその障壁を飛び越えます。その後、障壁を取り除いても、2 番目の羊も、今は存在しない障壁を飛び越えます。そして、残りの羊も同じように真似します。これは盲目的模倣の例です。同じように、私たちは、ファッション、デザイン、ライフスタイルなどにおいて、ヨーロッパ人やアメリカ人がやっていることを真似します。しかし、アメリカには、他人の真似をしない人々がいます。

 

かつてビル・ゲイツはハーバード大学の集会で講演するよう招かれたことがあります。彼は、「どれだけ稼いだか、名声を得たか、などで、人の功績を測るのではなく、社会のためにどれだけ貢献しているか、人々の間の不平等を減らすためにどれだけ貢献しているか、で判断しましょう」と言いました。なんと素晴らしいメッセージでしょう!同じことをスワーミー・ヴィヴェーカーナンダもおっしゃいました。しかし私たちはしばしば、その人の仕事の経歴で人を判断します。

 

ですから、私たちは自分のやり方や態度を分析して、自分が深く考える人間なのか、それとも盲目的に他人を真似する人間なのかを見極める必要があります。私たちは、羊のようにただ真似るだけではなく、他人から良いことを学ぶことができます。思慮深い人は皆、内省しますが、浅い人は社会の流れに流されてしまいます。

 

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2025119日 ホーリー・マザー生誕祝賀会

「ホーリー・マザーについての話し」

スワーミー・メーダサーナンダ

 

ホーリー・マザーについて何か言うのは本当に難しいです。私たちはホーリー・マザーの愛を享受することはできますが、それが何であるかを説明することはできないからです。しかし、私は今日、ホーリー・マザーの生誕祝賀会のお祝いの一環として、ホーリー・マザーについて何か言わなければなりません。

 

19世紀後半から20世紀初頭にかけてベンガルで活躍した劇作家で、若い頃は自由奔放な生活を送り、後にシュリー・ラーマクリシュナの熱心な信者となったギリシュ・チャンドラ・ゴーシュは、かつてホーリー・マザーに「お母さん、あなたは私の本当のお母さんですか、それとも、私のグルであるシュリー・ラーマクリシュナの妻なので、お母さんなのですか? それとも、私があなたと、母と息子の関係を築いたからお母さんになってくださったのですか」と尋ねました。ホーリー・マザーは、「私はあなたの本当の母です」とはっきりと答えました。

 

ドゥルガー・サプタシャティには次の詩節があります。

 

ヤ デーヴィ サルヴァブーテーシュ マトゥリ・ルーペーナ サンスティタ

ナマスタッスャイ ナマスタッスャイ ナマスタツャイ ナモー ナマハ

 

おお、母のお姿となってすべての生き物の中に宿る女神よ、

あなたに敬礼します、敬礼します、何度も何度も敬礼します。

 

この詩節の意味は、この地球上のすべての母親は、聖母のあらわれにすぎない、ということです。私たちが霊的に無知である限り、この詩節の重要性を理解することはできません。このことに関して皆さんとシェアしたいのは、後に僧侶となったホーリー・マザーの弟子が、彼女について見たビジョンです。彼は非常に活動的で、率直で、少し頑固な方でした。彼はホーリー・マザーの故郷であるジャイランバティで、マザーに愛情深く仕えていました。ある日、ホーリー・マザーはその信者に花を摘んで持って来るように言いました。彼はその理由が分からないまま、マザーの言いつけに従いました。すると、ホーリー・マザーは毎日のシュリー・ラーマクリシュナへの礼拝を始めてから、その信者に自分の近くに座るように言いました。

 

礼拝が終わると、ホーリー・マザーは信者に「マントラを教えるので、それを繰り返しなさい」と言いました。それから壁に掛かっているシュリー・ラーマクリシュナの写真を指しながら、「彼はあなたが選んだ神であり、あなたのグルでもあられます」と言いました。すると信者は議論を始めました。「どうしてシュリー・ラーマクリシュナが私のグルでなければならないのですか?あなたが私にイニシエーションを授けてくださったのですから、あなたが私のグルです」 ホーリー・マザーは「いいえ、私はあなたのグルではありません。あなたのお母さんです」と答えました。 信者は議論を続けました。「どういうことですか?私の母は私の故郷の村に住んでいます。どうして私の母になれるのですか?」するとホーリー・マザーは言いました。「私をごらんなさい。私があなたの母かどうか確かめなさい」 信者がホーリー・マザーを見つめると、そこに自分の生母が座っているのが見えました。この光景に非常に感動し、すぐにホーリー・マザーに平伏し、それ以来、自分の体、心、すべてをホーリー・マザーの御足に捧げました。

 

次に、ホーリー・マザーと一般的な母親の違いについてお話しします。ホーリー・マザーの伝記を研究すると、ホーリー・マザーと一般的な母親の間には多くの違いがあることが分かります。

 

あらゆる愛の中で、母親の子供に対する愛が最も大きいと言われています。例えば、もし赤ちゃんが動物に襲われたら、お母さんは命がけで子供を助けます。しかし同時に、そのように自分の命を危険にさらすのは、自分の赤ちゃんの場合だけであることにも留意すべきです。しかし、ホーリー・マザーは誰に対しても分け隔てなく愛を示しました。つまり、ホーリー・マザーの愛は普遍的だったのです。ホーリー・マザーの時代には、カースト制度、清潔さ、飲食物、一緒に食事をすることなどに関して、特にブラーミンの未亡人に対して厳密で厳しい規則や慣習がありました。ホーリー・マザーは普段はそれに従っていましたが、必要な場合には母親としての愛を示すために、ためらいなくそれらを無視しました。スワーミージーの外国人信者である、ミセス・サラ・ブル、ミス・マーガレット・ノーブル、ミス・ジョセフィン・マクラウドが初めてホーリー・マザーに敬意を表すために訪れたとき、ホーリー・マザーは彼女らを心から歓迎しただけでなく、果物などを一緒に食べました。これはインドの信者や仲間にとっては衝撃的でしたが、外国から来た信者たちには非常に喜ばれました。

 

また、ジャイランバティの近くにアムザードという名のイスラム教徒が住んでいました。アムザードは、盗みのプロで、何度も監獄に入れられていました。ホーリー・マザーはそのことをよくご存じでしたが、アムザードが訪ねてくるときはいつも、彼を自分の子供のように扱い、こう言いました。「シャラト(スワーミー・サーラダーナンダジー、シュリー・ラーマクリシュナの直弟子の一人で、非常に尊敬されている僧侶であり、ラーマクリシュナ僧団と僧院の元僧長)が私の息子であるように、アムザードも私の息子です」

 

力に関する最も重要な違いは、一般的な母親の力は限定的であるのに対し、根本エネルギー(アディヤ・シャクティ、パラマ・プラクリティ)の体現であるホーリー・マザーは、宇宙を創造、維持、破壊する無限の力をお持ちです。また、最高の知識、信仰、そして生と死のサイクルからの解放、も与えてくださることです。

 

ホーリー・マザーのもう一つの秀でた特性は、一般的な母親が子供の幸福に気を配るのは今生だけなのに対し、ホーリー・マザーは今生だけでなく、亡くなった後の子供の幸せの面倒も見る、ということです。さらに、ホーリー・マザーは肉体に宿っている間だけでなく、肉体を離れた後も子供の幸福のためにお世話をしてくださっています。彼女はよく信者たちにこう言って安心させました。「我が子よ! いつも覚えていてください。あなたにはお母さんがいます。他に誰もいなくても、私はいつもあなたと一緒にいます」 このように保証してくださっていることが、私たちの波乱に満ちた人生において、強さと励ましの源になります。このお言葉は、うわべだけのものではなく、事実です。その例をいくつか挙げてみましょう。

 

私は、ホーリー・マザーにとても近しく、ホーリー・マザーの付き人としてホーリー・マザーに仕えるという、まれな特権を授かった約 5 人の僧侶に会うという稀有な幸運に恵まれました。そのお一人が、スワーミー・サラデーシャナンダジー (ゴペーシュ・マハーラージ) でした。私が彼に会ったのは、彼がヴリンダーヴァンのラーマクリシュナ僧院セヴァシュラマで最後の日々を過ごしていたときで、寝たきりでした。ホーリー・マザーについて何か話してくださいとお願いすると、彼はただ「マー ト ニッティヤ(母は永遠です)!」とだけおっしゃいました。ホーリー・マザーの存在は、時間や空間によって制限されることはありません。

 

昨年オーストラリアを訪問した際、シドニーのヴェーダーンタ協会の会長であり、私たちの僧団の最高齢の僧侶であるスワーミー・シュリダラーナンダジーと会いました。シュリダラーナンダジーは、ラーマクリシュナ僧団の昔の僧侶たちについての思い出を語られました。その一つは次のとおりです。シュリダラーナンダジーはホーリー・マザーに会ったことはありませんでしたが、ホーリー・マザーの近しい弟子の一人で、付き人だったこともあるスワーミー・シャンターナンダジーに仕える機会がありました。シャンターナンダジーはベナレスで隠遁生活を送っているとき、伝染病の結核にかかったことがわかりました。しかしそのことはシャンターナンダジーには秘密にされました。当時、結核の効果的な治療法はありませんでした。ベルル・マト本部は最終的に、治療と療養のため、美しい山の自然に囲まれた結核療養所にシャンターナンダジーを送ることに決めました。当時はまだブラフマチャーリー・サリルであったシュリダラーナンダジーが付き人としてシャンターナンダジーと一緒に暮らしていました。シャンターナンダジーはよく彼にご自分の食事を分けていました。シャンターナンダジーとブラフマチャーリー・サリルを乗せた車が療養所の門の近くに来たとき、シャンターナンダジーは入口の看板に「キング・ジョージ・エドワード7世 結核療養所」と書かれているのに気づきました。シャンターナンダジーは、すぐにご自分が結核に罹患しており、治療のためにそこへ運ばれたことに気付きました。そこに落ち着いてから間もなく、マハーラージは深刻な表情になり、ブラフマチャリのサリルと3日間ほとんど口をきかなくなったので、ブラフマチャリはとても心配しました。3日後、マハーラージは元の様子に戻りました。尋ねられるとサリルに沈黙していた理由を打ち明けました。彼は、よく食べ物を分けていたサリルも結核になっていないか非常に心配していたのです。そのため、この3日間、彼はホーリー・マザーに、「どうかサリルが結核にかかりませんように、お守りください」と非常に深く祈り、ついに、前の晩にホーリー・マザーがあらわれ、彼の祈りを聞き届けると保証してくださったので、シャンターナンダジーは大いに安心しました。

 

ホーリー・マザーは肉体を持たなくても、その生き生きとした存在をあらわしてくださる、ということに関する最後の例をお話しして、私の話しを終えます。この例は感動的であると同時に、安心感を与えてくれます。

 

敬愛するスワーミー・ランガナターナンダジーは、高位の僧侶であり、国際的に名声を博した演説家でした。私たちの僧団の僧長になる前は、副僧長のおひとりで、ハイデラバードの僧院に在住していました。当時、ハイデラバードの女性信者3人が、ベルル・マト、シュリー・ラーマクリシュナの生誕地カマルプクル、ホーリー・マザー・サーラダー・デーヴィーの生誕地ジャイランバティを訪れる計画を立てていました。女性の一人がランガナターナンダジーに会い、「マハーラージ、私たちはジャイランバティに3日間滞在させていただくことになりました」と言いました。マハーラージは、「それはよかった。お母さんと一緒に3日間過ごせるのは、特別なことだよ!」と答えました。信者が「マハーラージ、ホーリー・マザーが今も肉体をお持ちでしたら、どんなによかったでしょう」と言うと、マハーラージは力強く、「どういう意味だい? お母さんはまだそこにおられるよ。心配いりません」と言いました。信者は、マハーラージが彼女を慰めているのだと思いました。しかし、マハーラージは真剣な口調でこう言いました。「本当だよ、お母さんはまだそこにおられます」

 

翌日、信者たちは巡礼に出発しました。彼らはベルル・マトに到着し、数日のうちにジャイランバティのマトリ・マンディールに着きました。そして、ジャイランバティでの3日が過ぎました。最終日の夜、プラサードの後、信者のうち2人は就寝しました。しかし、敬愛するランガナターナンダジーに会った3人目の信者は眠くなかったので、すでに閉まっている寺院までゆっくりと歩いていきました。彼女はジャイランバティを去らなければならないので悲しい思いをしていました。彼女は「ホーリー・マザーがお住みになられた古い家と新しい家、ホーリー・マザーが歩かれた道、ホーリー・マザーが沐浴なさったアモダール川 … ホーリー・マザーご自身以外はすべてここにあるのに」と独り言をつぶやきました。目から涙があふれました。彼女は、きっとこれがホーリー・マザーの故郷の村への最後の訪問になるだろう、残りの人生はこの訪問の思い出とともに過ごさなくては、と考えながら、ジャイランバティの聖地から土を少し取って布に包みました。あたりは真っ暗で、静まり返っていました。女性が部屋に戻ろうとしたとき、想像を超える驚くべきものを見ました。

 

彼女は何を見たのでしょうか。彼女は、ホーリー・マザーが寺院の片側に座って、そのあたりを掃除しているのを見たのです。夜だったので周囲は真っ暗でしたが、ホーリー・マザーが座っておられる場所は神聖な光で照らされていました。女性は立ち尽くして、「ホーリー・マザーは何年も前に肉体を離れたのに、どうして今ここにおられるのかしら」と考えました。ホーリー・マザーが彼女を見て、「さあ、私の愛しい子よ! さあ、ここにお座りなさい」と話しかけたとき、女性は言葉を失いました。ホーリー・マザーのお言葉は愛と慈悲に満ちていました。女性は、ホーリー・マザーが近づいてくるのを見ました。その後、女性は我に返って、ホーリー・マザーに「お母さま、どうぞお座りください。私がここを掃除します」と言いました。これを聞いたホーリー・マザーは笑って、「娘が母親に会いに来たのに、娘に仕事をさせるの?」と言いました。すると女性が「わかりました、お母さま、ここにお住まいのスワーミー方をお呼びしましょうか?」と言うと、ホーリー・マザーは答えました。「ほら、息子たちは一日中働いて疲れているから、今は休んでいるのよ。邪魔しないであげましょう」

 

ホーリー・マザーの仕事が終わると、二人はさらに会話を続けました。女性は、マザーが自分の母語であるテルグ語で話しかけているのを見て驚きました。周囲の他のすべてのものを完全に意識していたので、マザーを見て話しかけていることのあまりのリアルさに、彼女は驚きを隠せませんでした。だから、これは夢でも幻でもない、女性がこのように考えていたとき、ホーリー・マザーは彼女に言いました。「さあ、我が子よ、部屋に行って休みなさい。明日、帰らなくてはならないのでしょう」 それから女性はゲストハウスに向かって歩き始めました。しばらくして彼女が振り返ると、ゲストハウスに着くまでホーリー・マザーがずっと見守ってくださっていました。

 

他の二人の女性は、友人からこの出来事の一部始終を聞いて大喜びし、他の人には漏らさないことにしました。三人の女性は全員ハイデラバードに戻り、数日後にアシュラムに行きました。寺院でプラナームを捧げた後、彼女たちは敬愛するランガナターナンダジーに会いました。ジャイランバティにホーリー・マザーがいるとは信じていなかったが、後にホーリー・マザーの生き生きとした存在を体験した信者がマハーラージの御足に触れると、彼女が驚いたことにマハーラージは、「何だって?今は信じるのかい?」と言いました。女性は、「マハーラージ、ジャイランバティ滞在中に起こったことを、どうしてご存じなのですか?」と尋ねました。マハーラージはその質問をはぐらかし、ベンガル語の歌を二行歌いました。

 

ダク デキ モン ダカール モトン、ケモン シャーマ タクテ パレ

 

ああ、心よ!あなたが切なる心でお母さんを呼び求めるなら、

お母さんはいつまであなたから身を隠すことができるでしょうか?

 

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忘れられない物語

 

「すべては一枚の腰布のため」

 

あるサドゥがグルの指示のもと、人里離れた場所に草庵を作った。彼はその庵で信仰の修行を始めた。

 

それから彼は、毎朝身を清めた後、濡れた布と腰布(カウピナ)を庵の近くの木に掛けて乾かしていた。ある日、毎日の托鉢のために訪れた隣村から戻ると、ネズミが腰布に穴を開けていた。それで翌日、新しいカウピナを村まで取りに行かなければならなかった。 

 

数日後、サドゥは庵の屋根の上に腰布を広げて乾かし、いつものように村に托鉢に出かけた。戻ってみると、ネズミが腰布をずたずたに引き裂いた後だった。彼は非常に腹を立て、心の中で「布を乞うのにはどこに行けばいいのだろう。誰に頼むべきだろう」と考えた。そして彼は翌日村人たちに会い、ネズミが起こした悪事を再び彼らに話した。サドゥの話しをすべて聞いた村人たちは、「毎日あなたに布をお布施する者などおりません。猫を飼う、というたった一つのことをすればいいんですよ。そうすればネズミは近寄らなくなります」と言った。

 

サドゥはすぐに村で子猫を捕まえ、庵に連れ帰った。その日からネズミに悩まされることはなくなり、彼の喜びは尽きなかった。サドゥは今や、この役に立つ小さな生き物をとても大切に世話し、村で乞うたミルクを与え始めた。数日後、村人が彼に言った。「サドゥジー、あなたは毎日ミルクがいるのですね。私たちがお供えできるのは、せいぜい数日です。誰もミルクを一年中お供えなどできません。牛を飼う、というたった一つのことだけをしてください。そうすれば、そのミルクをお飲みになって、ご自分を十分快適にできますし、猫にも少し与えることができますよ」 数日後、サドゥは乳牛を手に入れ、ミルクを乞う必要はなくなった。

 

やがて、サドゥは牛に与えるわらを乞う必要があることに気付いた。そのために近隣の村々を訪れる必要に迫られたが、村人たちは言った。「庵の近くには無耕作地がたくさんあるではないですか。土地さえ耕せばいいんですよ。そうすれば牛のわらを乞わなくてよくなります」 彼らのアドバイスに従って、サドゥは土地を耕し始めた。徐々に労働者を雇わなければならなくなり、後には収穫物を保管するための納屋を建てる必要があることに気付いた。こうして、彼は時が経つにつれて、一種の地主になったのだ。

 

そして、ついにサドゥは大家族の世話をするために妻をめとる羽目になった。彼は今や忙しい家主のように日々を過ごしていた。しばらくして、グルがサドゥに会いに来た。グルは、物や家財道具に囲まれていることに気づき、困惑して召使いに尋ねた。「昔ここで、ある修行僧が庵に住んでいたはずだ。どこに引っ越したのか教えてもらえるだろうか?」召使いは答えあぐねた。そこでグルが思い切って家の中に入ると、中には彼の弟子がいた。グルは彼に言った。「息子よ、これは一体どういうことなのだ?」弟子はひどく恥じ入って、グルの御足にひれ伏して言った。「我が主よ、これらはすべて、たった一枚の腰布のためなのです!」

 

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今月の思想

 

人は、断固とした態度をとらなければならない。「なに! 私は母の御名をとなえたのだぞ。どうして罪びとなどでありえよう。私は彼女の子供、彼女の御力と栄光の相続人だ」と。

もしお前たちが自分のタマスを霊的な方向に向けることができるなら、お前たちはそれの助けで神を悟ることができる。自分の要求を神に強制しなさい。彼は決してお前たちにとって他人ではない。彼はほんとうに、お前たちの身内なのだ。

…シュリー・ラーマクリシュナ

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発行:日本ヴェーダーンタ協会

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