今月のニュースレター

 

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ヴェーダーンタ協会ニュースレター(日本語版)

日本ヴェーターンタ協会の最新情報

2025年1月 第23 巻 第1

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かく語りき――聖人の言葉

 

私は悪い子のお母さんであり、良い子のお母さんです。困ったときはいつでも 「私にはお母さんがいる」と自分に言い聞かせなさい。

…ホーリー・マザー・シュリー・サーラダー・デーヴィー

 

シュリー・ラーマクリシュナは、シャクティを遠い存在としてではなく、子供たちのために常に腕を広げている慈悲深い母として礼拝する習慣を復活させました。

…ラビンドラナート・タゴール

 

シュリー・ラーマクリシュナの特質は、母への道を単なる儀式としてではなく、神との最も深遠で個人的な関係としてお見せになったことです。

…ロマン・ロラン

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目次

・かく語りき――聖人の言葉

・お知らせ

20253月の生誕日

202476日 善通寺夏季リトリート講話① 

「バガヴァッド・ギーターにおけるトリグナ」

スワーミー・メーダサーナンダ

20241117日 月例講話 午後の部

スワーミー・メーダサーナンダとスワーミー・アートメーシャナンダによる質疑応答

2024126日 日印関係のセミナーの報告

・忘れられない物語

・今月の思想

 

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お知らせ

・各プログラムに参加を希望される方は、協会までご一報ください。

・日本ヴェーダーンタ協会の行事予定はホームページをご確認ください。

https://www.vedantajp.com/

 

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20253月生誕日 

 

シュリー・ラーマクリシュナ        31日(土)

シュリー・チャイタンニャ         314日(金)

スワーミー・ヨーガナンダ         318日(火)

 

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202476日 善通寺夏季リトリート 講義①

 「バガヴァッド・ギーターにおけるトリグナ」

スワーミー・メーダサーナンダ

 

オーム サハ ナーヴァヴァトゥ

サハ ナウ ブナクトゥ

サハ ヴィーリャン カラヴァーヴァハイ

テージャスヴィ ナーヴァディータマストゥ

マー ヴィドゥヴィシャーヴァハイ

オーム シャーンティ シャーンティ シャーンティヒ

(タイッティーリヤ・ウパニシャドより)

 

ブラフマンが教師と弟子の両方を導いてくださいますように。

「主」が私たち双方を養ってくださいますように。

私たちが豊かな活力をもって、ともに働けますように。

私たちの学習がたくましく実り多いものでありますように。

愛と調和が、私たちの間に宿りますように、どうか私たちをお守りください。

オーム 平安 平安 平安。

 

生徒とグルがお互いを尊敬し、愛し合うと、勉強は進みやすくなるし、効果的になります。私たちの勉強会は世俗的なテーマではないので、これは大事なことです。そして先生のフィーリングと生徒のフィーリングがとても大事なのです。

 

アサトーマー・サドガマヤ

タマソーマー・ジョーティルガマヤ

ムリッティヨールマー・アムリタム・ガマヤ

オーム・シャーンティヒ・シャーンティヒ・シャーンティヒ

(ブリハドアーラニヤカ・ウパニシャドより)

 

神様、非実在から実在へ導いてください。

無知の暗闇から知識の光へ導いてください。

死から不死へ導いてください。

平安、平安、平安。

 

瞑想をする際に覚えておくべき四つの実践があります。

(1)まず、神を尊敬する。

(2)その後、深くリズミカルに数回呼吸する。

(3)すべての存在の幸せを祈る。

4)毎日少なくとも15分間、特に朝に瞑想をする。

 

今朝は、ほとんどの人が善通寺本堂の濡れ縁で瞑想をしました。私は、その後に携帯電話をいじっている人たちを見ました。瞑想の後に携帯電話を触ると、瞑想の効果が全くなくなるので気をつけください。皆さんがここまでわざわざ来た目的は、特別なインパクトを受けたいからですね。しかし携帯電話を触ると、そのインパクトが無くなるので、リトリート期間中はなるべく携帯電話を使うのは控えてください。それも大事な実践の一つです。普段でも携帯電話を無分別に使うと反動が出るので気を付けてください。

 

さて、今日の講話のテーマは「バガヴァッド・ギーターにおけるトリグナ」です。「トリ」とは「三つ」を意味し、「グナ」は性質を意味します。「バガヴァッド・ギーターとトリグナ(三つの性質)」というトピックはとても大きいので、大事なポイントだけを話します。皆さん集中して聞いてください。とても大事な勉強も入っています。

 

スワーミー・ヴィヴェーカーナンダの信者であり親友のジョセフィン・マクラウドは「スワーミージーは常に学習者の態度だったので、いつもフレッシュでした」と言いました。スワーミージーはいつも、皆さんや本から毎日毎日さまざまなものを勉強していたのです。学ぶことをやめてしまった瞬間、私たちは死んでしまいます。サンスクリット語には 「ジーヴァンムクタ(体に生きながら解脱している人)」と「ジーヴァンムリタ(生きているのに死んでいるような状態の人)」という二つの言葉があります。ジーヴァンムリタは、私たちが学ぶことをやめたときに陥る状態です。シュリー・ラーマクリシュナは、「死ぬまで、少しずつ少しずつ毎日、新しいもの、大事なものを学ぶ」とおっしゃいました。しかし、携帯電話のライン、チャット、フェイスブックなどで、新しい大事なことはほとんど学べません。また、私たちの中には、学ぶ意欲も大事なことをする意欲もないジーヴァンムリタが多くいます。

 

【バガヴァッド・ギーター】

私は、バガヴァッド・ギーター、お釈迦様の教え、聖書、コーランの中から選んだ内容で本を作り、皆さんがその本を勉強するのがいいと考えています。まず、お母さんとお父さん、学校の先生がそれを勉強し、それからそれを子供たちに教えるべきです。子供たちにそれらを教えれば、自殺、うつ病、ひきこもりなどの問題は結構減ると思います。

 

バガヴァッド・ギーターは、一番古く一番神聖な語でありデーヴァ・バーシャ(神の言葉)と呼ばれる「サンスクリット語」で作られています。18700詩節から成り、各章はヨーガの種類を示しています。その場合のヨーガとは哲学的なヨーガ(合一)のことです。各章には「自分と自分の本性を理解する」「自分の魂と最高の魂を合一する」「信者と神を合一する」ための方法が書かれています。すべてのヨーガを実践する必要はありません。それらの中の一つのヨーガを実践するすると、皆さんが望んでいる永遠な至福、永遠な平安、最高の知識、最高の自由を最後に得られます。そして、人生のすべての疑い、混乱、知らないことを理解し、人生のすべての問題が解決できます。

 

バガヴァッド・ギーターの特徴

・バガヴァッド・ギーターは古いのに常に新しい(old but still new)です。サンスクリット語で「pura api navaプラ・アピ・ナヴァ」と言います。

・非常に「論理的」です。なぜ私たちはヨーガを実践すべきなのか、どのように私たちを助けてくれるか、などを説明しています。

・とても「実践的」です。人生をサポートするためのたくさんの方法がつまっています。

・「普遍的」です。老若男女、日本人、インド人、キリスト教徒、イスラム教徒、ヒンドゥ教徒、罪人、貧しい人々など、誰でも勉強をすることができる人類のための聖典です。

・バクティ(信仰)、カルマ(無私の仕事)、ギャーナ(知的識別)、ラージャ(瞑想)、サンニャーサ(離欲)などのヨーガをあわせてできており、「調和的」です。

・「楽観的」です。すべての人に希望を与えます。悲観主義では全くありません。大罪を犯した人でも、バガヴァッド・ギーターを勉強すれば聖者になれます。(第436節)

・ギーターに書かれていることはすべて重要です。聖典の中には時々、重要なこととそうでないことが混ざっていますが、ギーターはすべて甘露です。

 

バガヴァッド・ギーターの特徴を知ると、どれくらい素晴らしい聖典であるかが分かりますね。しかしバガヴァッド・ギーターは独学すると混乱が出ます。バガヴァッド・ギーターの話はとても深い意味があるので、先生と一緒に勉強した方がいいです。そうすると、はっきりと意味を理解することができます。また、皆さんは、聖典(『ラーマクリシュナの福音』や『聖書』など)を一つと、バガヴァッド・ギーターを毎日毎日、絶対に読んだ方がいいです。

 

【トリグナ:サットワ、ラジャス、タマス 三つの性質】

「トリグナ」のアイデアは「サーンキヤ哲学」の中に入っています。ですので、まずサーンキヤ哲学について説明します。

 

サーンキヤ哲学

ウパニシャドの後、ヒンドゥ教にできた六つの哲学の中で一番古い哲学はサーンキヤ哲学です。サーンキヤ哲学の中には、宇宙論(cosmology)の非常に大事な理論があります。マクロレベルでは「この宇宙はどのようにできたか」について、ミクロレベルでは「私たちの中にどのようにトリグナの影響があるか」です。それらについてサーンキヤはとても特別な哲学です。

 

サーンキヤ哲学の中には「要素」と「グナ」という二つのアイデアがあります。この宇宙は、まず「五大要素(空(ヴィヨーマ)風(マルット)火(テージャ)水(アプ)地(クシーティ))」のとても精妙な要素が、空→風→火→水→地の順番に出て、それが後で合わさってこの宇宙は作られました。最初はとても精妙な要素で、後で粗大な要素になりました。その粗大な要素を混ぜてこの宇宙は作られたのです。私たちが認識している宇宙は、粗大な要素でできた宇宙です。それが大事なポイントです。空風火水地それぞれの要素の中には「サットワ、ラジャス、タマス」という三つの性質が含まれています。

 

サーンキヤ哲学の「要素」と「性質」の考えは、オリジナルはさらに古い昔の聖典であるヴェーダとウパニシャドの聖者の頭(考え)の中にありました。(ヴェーダの中にウパニシャドがあります) しかし、ウパニシャドの時代にその考えは、システム的ではありませんでした。

 

聖者カピラ

聖者カピラ(カピラ・ムニ)が、ウパニシャドの考えをシステム的に合わせて哲学のシステムを作ったのがサーンキヤ哲学です。聖者カピラの生誕日については学者の中でさまざまな意見があります。聖者カピラが作った哲学はいったんなくなりました。AD5世紀に生まれたイーシュワラクリシュナという聖者が、聖者カピラからおよそ1800年後にサーンキヤ哲学の本を作りました。一番大事なことは、聖者カピラが何をなさったか、ということですが、それははっきりとは分かりません。バーガヴァタムの中で聖者カピラは自分の母に教えました。しかし、バーガヴァタムはけっこう後世の聖典です。BC14001900年頃に作られたとされるバガヴァッド・ギーターの中でシュリー・クリシュナは「私は悟った人の中ではカピラ・ムニである(第1023節)」と言っています。それは「私は以前、カピラの姿であらわれた」という意味です。つまり、聖者カピラは絶対にその前に生まれています。

 

先ほども言いましたが、聖者カピラがまとめたサーンキヤ哲学の元のアイデアはウパニシャドにあります。聖者カピラがすべてを自分の頭から作ったのではありません。同じように、日本の大勢の方は仏教の教えはお釈迦様が全部作ったと思っていますが、そうではありません。お釈迦様はヒンドゥ教のお坊さんでした。そしてヒンドゥ教の哲学もたくさん勉強しました。そこに自らのアイデアを足したものが仏教の教えとなったのです。

 

現在の科学者の宇宙論の考えとサーンキヤ哲学をはじめとするヒンドゥ教の宇宙論は似ていますが少し違います。なぜなら、科学者のベースは物質で、サーンキヤ哲学のベース、目的は悟りです。また、サーンキヤ哲学の他のインド哲学に対する影響は大きく、例えば、ヨーガ哲学、ヴェーダーンタ哲学にある宇宙論はすべて、サーンキヤ哲学の宇宙論のことが書かれています。

 

サーンキヤ哲学は二元論 (ヴェーダーンタ哲学は非二元論)

サーンキヤ哲学とヴェーダーンタ哲学の大きな違いは、サーンキヤ哲学が「二元論」であるのに対し、ヴェーダーンタ哲学は「非二元論」であることです。分かりやすい例では、二元論的考えでは、「『私たち個人的な存在』(ジーヴァ)と『最高の存在』(ブラフマン、神、最高の霊、絶対の真理)は全然違う」と言い、非二元論では「(外からは別々に見えるが)私たちの本性と最高の存在の本性は同じである」と言います。さらに、限定された非二元論的は、「レベルに違いはあるけれども私たちも一番最高の存在の一部分である」という見方です。

 

例えば、森を想像してください。森の中にはさまざまな木があります。菩提樹はとても大きな木ですが、マンゴーの木、小さな雑草もあります。「それぞれの木は全然違うものである」というのが二元論的考えです。マンゴーの木には枝も実も葉もありますが、マンゴーの木の枝をマンゴーの木とは言いません。「枝も実も葉もマンゴーの木の一部分である」というのが限定された非二元論的考えです。非二元論的考えでは「どんな木もすべて木である」となります。

 

二元論のサーンキヤ哲学は、プラクリティとプルシャがずっと永遠に続くと考えます。

 

(ちなみに、非二元論であるヴェーダーンタ哲学の考えでは、存在はただ一つ、プルシャ(ブラフマン)だけです。プラクリティはプルシャ(ブラフマン)から出てまたプルシャ(ブラフマン)に戻ります。ブラフマンに入るとき、宇宙はなくなります。鳥は巣を作るとき、外から色々ものをもってきて作りますが、蜘蛛は自分の中から巣を出します。同様に、プルシャ(ブラフマン)は中からその宇宙を創る、とヴェーダーンタ哲学は言います)

 

プルシャとプラクリティ

サーンキヤ哲学の考えで、五つの要素はすべてプラクリティから出ます。プルシャはいつも存在していますが、動かず、他のものと関わりがありません。プルシャは常に、執着がなく(unattached)、自由(free)で、純粋(pure)で、静か(calm, quiet)です。プラクリティは反対に、いつも活発でいつも動いています。

 

プルシャだけに意識があります。プラクリティは物質です。しかし、プルシャとプラクリティは一緒にきますと、プラクリティは働きが始まります。プルシャとプラクリティが近くに来ると、宇宙の創造が始まります。名前、形、性質(サットワ、ラジャス、タマス)、五つの要素(空風火水地)など、すべてが始まります。プルシャはプラクリティの近くに来ると自分の本性を忘れて、プラクリティと自分を同一視します。そして困っています。無知の影響で、プラクリティの状態が自分の状態である、という考えが出るのです。

 

サットワ、ラジャス、タマスの特徴

・サットワ的性質は、「すべての一番良い性質」です。清らかさ、純粋さ、親切、真実、慈悲、普遍的な愛、調和的、シンプルさ、非利己的、謙虚さ、これらがサットワ的性質です。「サットワ的な働き手」は、カルマ・ヨーギーであり、理想的な働き手です。いつも幸せで心が静かです。いつも中から喜びが出ます。ストレス、怖れはありません。

 

・ラジャス的性質は、「いつも動いている」です。働き過ぎです。大事な仕事がなくても忙しくします。無駄な仕事で忙しくして、自己成長のための瞑想、聖典を読む時間も、アーサナ、プラーナーヤーマなどのヨーガをする時間もありません。皆さん、内省をして無駄な仕事はやめてください。目標もなく人生という川をただ流れているだけではいけません。いわゆる「先進国」の中には、ラジャス的性質を持つ人が多いです。彼らの多くは「カルミー(仕事や結果に執着する労働者)」であり、「カルマ・ヨーギー(熱心に働くが仕事の結果に執着しない人々)」ではありません。誤解しないでください、「ラジャス的な働き手」は仕事がとても上手(efficient worker)ですが、理想的な働き手ではありません。ストレスも恐れもたくさんあります。

 

また、ラジャス的な人は、「愛着」「欲望」が数えきれないほどあります。欲望は、朝から夜まで、生まれてから死ぬまで、海の波のように次から次へとあらわれます。また、「心の中が落ち着かない」状態です。歩くときに小走りになるのは、そのあらわれなのでやめましょう。さらに「野心」があります。野心について、道徳的な方法で「もっと完璧になりたい、もっと進みたい」という野心であれば大丈夫ですが、時々非道徳的な方法で野心や欲望を満足させることが問題です。「嫉妬」「競争心」もあります。

 

・タマス的性質は「あまり動かない」です。怠惰で、陰気で、否定的で、憂鬱です。タマス的な人は比較的少ないです。タマス的な働き手は、働くのが下手で、ミスを多く犯し、働くことが嫌いです(idol worker)。

 

サットワ、ラジャス、タマスのアイデアの源

先ほど、サーンキヤ哲学のアイデアはウパニシャドの聖者(リシ)の頭の中にあったものだと言いました。では、その聖者(リシ)たちはどのようにそのアイデアを得たのでしょうか。それは「深い観察」によってです。多くの人の性格、考え、働き、振る舞い、態度を観察して、観察で得たデータを深く考えて、整理して、トリグナのアイデアがでました。聖者の心は、瞑想によってとても強くなり、深く集中することができました。ですので、機器や研究室がなくても人々の本質を見抜くことができました。

 

サットワ、ラジャス、タマスを比較する場合、強調は「霊的」です。一般的な比較は、例えば「藪医者、普通の医者、良い医者」のように「行動の質」だけで比較をしますが、トリグナの比較は、絶対に「霊的」なことが関係あります。

 

 

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20241117日 月例講話 午後の部

スワーミー・メーダサーナンダとスワーミー・アートメーシャナンダによる質疑応答

 

質問:宇宙には星、惑星、天体があります。マハーバーラタにはウッタラーヤナ[※1]とダクシナーヤナ[※2]について書かれています。ラーマクリシュナ・ローカについても聞いたことがあります。ラーマクリシュナ・ローカとは何ですか? ラーマクリシュナ・ローカは存在するのでしょうか?

 

スワーミー・アートメーシャナンダの答え:一つ面白い出来事を話しましょう。私がシンガポールにいた時、あるシンガポール大学教授ご夫妻と知り合いでした。彼らの娘さんはオーストラリアに住んでいたので、一緒に暮らそうと両親をオーストラリアに呼び寄せました。時を同じくして私もシンガポールからオーストラリアに移動しました。さて、ある日、私は教授ご夫妻が老人ホームにいることを知り、教授に会いに行きました。「お元気ですか?」と尋ねると、教授は「元気です」と言いました。教授は満面の笑みを浮かべて言いました。「スワーミー、昨日、私はラーマクリシュナ・ローカに行った夢を見ました。ドアには鍵がかかっていました。私がノックすると、タクールがドアを開けて『ほら、長い列ができているので、ちょっと待っていておくれ』とおっしゃったのですよ」

 

スワーミー・メーダサーナンダの答え:このことについての私の理解を言います。あなたが言うようにウッタラーヤナとダクシナーヤナという二つの道があります。一方を通るとこの地球に戻ってきますが、もう一方を通ると戻りません。しかし、悟った魂には、ウッタラーヤナもダクシナーヤナも意味がありません。

 

ヨーギーたちは、私たちの体には七つのチャクラがあると言いますが、医者が私たちの体を解剖したとき、チャクラは見えますか? 実際、チャクラは非常に精妙なので、ヨーギーだけにしか見えません。また、バラナシは、黄金のカーシーと呼ばれています。私たちが見ているカーシー (バラナシ) は粗大なカーシーだけですが、その背後には精妙なカーシーがあります。それが本当のカーシーですが、普通の目では見ることができません。

 

もしあなたが私に「ラーマクリシュナ・ローカを信じますか?」と尋ねたら「はい、信じます」と答えます。なぜなら霊的なことがらについて、シュリー・ラーマクリシュナとホーリー・マザーがおっしゃることはすべて100%真実である、と信じているからです。ホーリー・マザーは「ラーマクリシュナ・ローカはあります」と述べておられますし、シュリー・ラーマクリシュナの直弟子たちもそれについて語られています。ホーリー・マザーは「タクールがあなた方のためにラーマクリシュナ・ローカをお創りになったのです」とおっしゃいました。信者は肉体を離れた後、ラーマクリシュナ・ローカに行き、そこで至福の生活をします。

 

しかし、ホーリー・マザーは、「あなたがマーヤーの領域にいる間だけ、これらのローカは存在します」ともおっしゃっています。もし人がブラフマンに達したらどうでしょう? その時、小さな『私』はブラフマンの意識の中に溶け入ります。ブラフマンだけが存在するとき、誰がどこへ行くのでしょうか?

 

※1 ウッタラーヤナ:火と炎と昼が支配し、月の明るい二週間と太陽が北緯にある六か月の間に、ブラフマンを知る人がこの世を去った場合、その人はブラフマンの元へと必ず到達し、再び物質界(この世)に戻ってくることはない。 BG8.24

 

※2 ダクシナーヤナ:しかし煙と夜が支配し、月の暗い二週間と太陽が南緯にある六か月の間に修行者(ヨーギー)がこの世を去った場合、その修行者は月光の輝く世界に到達し、再びこの地球へと戻ってくる。BG8.25

 

質問:キリスト教とイスラム教では、人間は神になることはできないと明確に言われています。乗り越えられない壁があるからです。それに対して、ヒンドゥ教では人間はブラフマンと一つになれると明言しています。しかし、私たちは時間と空間で制限されています。ある人が何千回もの苦行を生まれ変わるたびに行ない、これからもするとします。私たちは限られた存在ですが、永遠のものと一つになれますか? 限られたものがどうやってブラフマンになるのでしょうか?

 

スワーミー・アートメーシャナンダの答え:私たちは神になれるとは言いません。私たちは神聖であると言います。神は創造者であり、維持者であり、破壊者です。人間は神聖ではあっても、それらの性質は持っていません。さて、想像してください。空気は遍在しています。冬に部屋の暖房をつけたとき、暖かい空気だとか、冷たい空気と言います。空気は本当に暖かったり、冷たかったりしますか? 私たちはそれを条件づけて、暖かいとか冷たいとか言っています。同じように、「神聖さ」は私たちの体を含め、あらゆるところに存在しています。私たちは、本当は神聖であり、体だけが一時的なものであると信じているなら、体が無くなるとき、私たちは「神聖さ」と一つになります。

 

スワーミー・メーダサーナンダの答え:ヒンドゥ教がアドヴァイタ・ヴェーダーンタ(非二元論)だけを語っているというのは、真実ではありません。ヒンドゥ教には二元論の概念も存在します。ドヴァイタ哲学(二元論的哲学)によれば、信者と神は二つの異なる存在です。信者が神になることは決してありません。主イエスが『私と父は一つである』とおっしゃったにもかかわらず、教会の指導者たちはこの考えが広まることを許さず、抑圧したことを思い出してください。しかし、マイスター・エックハルトなど、神の非二元的な側面を信じるキリスト教の神秘主義者がいました。スーフィー[イスラム教スーフィー派]の信者の中にも神の非二元的な側面を信じる人はたくさんいます。

 

さて、それは私たちが自分自身をどう見ているかによります。私たちが自分自身を体と見ているなら、私たちは召使であり、神が主人であると感じます。しかし、私たちが自分自身を純粋な霊と見るなら、神、パラマートマンと、私たちのアートマンは一つになります。

 

質問:苦しみに満ちているこの世の中で、信仰を持ち続けるにはどうしたらよいでしょうか。他者を助けようとしても、どうしようもできず、無駄であると感じます。

 

スワーミー・アートメーシャナンダの答え:ホーリー・マザーは「この体があるうちは、苦しみに耐えなければなりません」とおっしゃいました。苦しみは私たちの人生であり、すべての人類の一部です。非常に古い時代から現在に至るまで、苦しみはさまざまな形で存在してきました。現在、メディアの影響で、私たちは苦しみが蔓延していることを痛感するようになっています。善と悪の間には常にバランスがあります。他の人を手伝うことができるなら奉仕をしてください。できないならば、困っている人の苦しみが長く続かないように祈りましょう。

 

スワーミー・メーダサーナンダの答え:ベンガル語には、次のようなことわざがあります。

 

スカ ドゥッカ ドゥイ バイ

シュケル ラギヤ ゼ コレ ピリティ、 ドゥッカ ザイ ター タイ

 

喜びと苦しみは兄弟のようなもので一緒にいます。喜びを招けば、苦しみも招かざるを得ません。ですので、実際私たちは喜びと苦しみの両方を超越しなければならないのです。他に方法はありません。天国には無限の喜びがあり、病気や老いなどはありません。しかし、天国も永遠ではありません。いつか終わります。そして天国にも苦しみをもたらす嫉妬やうぬぼれなどがあるのです。喜びも苦しみもない場所はありません。ですので、唯一の方法は、両方を超越することです。

 

そのためには二つの方法があります。一つは、目撃者として留まり、自分は体、心、知性、自我を超越したアートマンであり、楽しみも苦しみも自分に影響を与えないことを自分に思い出させることです。もう 一つは、どちらも神から来るものとして受け入れ、神のご意志にお任せすることです。

 

質問:信者の特徴とは何でしょうか?

 

スワーミー・アートメーシャナンダの答え:スワーミー・ヴィヴェーカーナンダの『バクティ・ヨーガ』という本の中で、スワーミージーは信者の資質を列挙しています。しかし、私が感じていることを言います。

 

第一の特質は、「ああ、主よ、私は人間としての人生を得ました。この人生のあらゆる瞬間で、私の人生はあなたへの旅であることを忘れないようにしてください」と思うことです。

 

信者がすべき二つ目の考え、決意は、「私は自分自身に対しても他人に対しても荒っぽいことをしなしい」です。誰も恐れることがないように。自分も恐れを感じないようにしましょう。神はすべての人の父であり母です。私たちはみな神の子供です。すべての人を神の子とみなせば、この恐れを知らない気持ちが生まれます。

 

三つ目は、自分が持っているものすべてを神に委ねることです。私たちの持ち物、富、家族、すべては神のもので、私はこれらすべての管理者にすぎません。

 

次は、「心での放棄」の実践です。何が来ても、まずそれを神、つまり私たちが選んだ理想神に捧げ、神の持ち物としてそれを使わせていただきます。この種の心での放棄は、信者の生活において非常に重要です。

 

次に、「ハート」をすべての感情、特に否定的な感情の「火葬場」にしてください。例えば、誰かに恨みを抱いているなら、その恨みをハートの炎の中に供物として捧げ、その恨みから解き放たれましょう。そうすれば、恨みはもう私たちを傷つけません。そうすることによって私たちはいつでも主に捧げられる新鮮な花のように、神の御足に留まることができます。

 

スワーミー・メーダサーナンダの答え:アートメーシャナンダジーがおっしゃったことはどれも非常に思慮深いものでした。私は別の観点からお答えしましょう。例えば、私たちが手に入れたものはすべて、自分のために使う前にシュリー・ラーマクリシュナに捧げます。これに関連して、重要な例を一つ挙げたいと思います。

 

今年(2024年)インドに行ったとき、私はプレジデント・マハーラージからイニシエーションを受けたラーマクリシュナ僧院の信者であるアーユルヴェーダの医師を訪ねました。このアーユルヴェーダの医師の父親も信者でした。私は彼にプレゼントするために、日本からボールペンを数本持って行きました。彼は医師として評判が高く、私が行った診療室での診療は週に一度だけでした。また、彼は僧侶から診察料を一切取らないそうです。私が彼にこのペンを渡すと、彼はそれをシュリー・ラーマクリシュナの写真の御足にタッチしました。私はとても感動しました。

 

さて、信者の特徴について話しましょう。実際、信者には二つのタイプがあります。一つ目のタイプは名ばかりの信者です。彼らは、ジャパムを 108 回行うだけで十分だと言います。これは最低限の回数だからです。彼らは、神への膨大な祈りのリストを持って寺院を訪れます。しかもそれらの祈りはだいたい自分自身の生活や家族をより良くするためのものです。

 

もう一方のタイプの信者は誠実な信者です。そのような信者には 二つの特徴があります。第一に、彼らは、神は永遠の友であり、永遠の親戚であり、永遠の避難所であるという強い信念を持っています。神以外の他者とのさまざまな関係はすべて一時的なものです。彼らの人生の中心は神です。

 

第二に、自分の考え、願い、すべての活動を神と結び付けます。神と結び付けられないものは一つもありません。この実践をすればするほど、私たちは霊性の道をより進歩させ、真の信者になることができます。

 

質問:バガヴァッド・ギーターにはとても多くの詩節があります。最も鼓舞される詩節を一つ挙げていただけますか?

 

スワーミー・アートメーシャナンダの答え:18 章の最後の詩節は次のとおりです。

 

sarva-dharmān parityajya mām eka śaraa vraja

aha tvā sarva-pāpebhyo mokhayihyāmi mā śucha

 

サルヴァ・ダルマン パリッテャッジャ マーム エーカン シャラナン ヴラジャ/

アハン トヴァー サルヴァ・パーペーッビョー モクシャイシヤーミ マー シュチャハ//

 

あらゆる宗教の形式を斥け、ただひたすらに私に頼り、服従しなさい。そうすれば、私がすべての悪業報から君を救ってあげよう。だから、なんら心配することはない。 BG18.66

 

ラーマヌージャチャーリヤはこの詩節をチャラマ・シュローカ、つまり究極のシュローカであるとおっしゃいました。ここで主は「すべてのダルマ(功績)と他のすべての欲望を放棄し、私だけに避難しなさい」と述べています。それは「私が何をしようと、すべてはあなたのものです」という意味です。次に、「私はあなた方が犯してきたあらゆる罪を解放します」という私たち全員にとって非常に大事な主の保証があります。最悪の罪でさえ、神は洗い流してくださるのです。[ユダヤ教、キリスト教、イスラム教などの]セム系の宗教では、人間は生まれながらにして罪人であると信じられていますが、ヴェーダーンタは生まれつきの罪人はいないと言います。「あなたが今生と過去の人生で塵や汚れを身につけてしまったとしても、私はそれをすべて洗い流す。ただ、私に委ねなさい。すべての行為を私に捧げ、それらについて心配しないように」 解脱できるか否かについて思い煩わないでください。ただし、絶対的な信仰は必要です。罪について深く考えれば、罪はやってきます。純粋さについて考えれば、私たちは純粋になるのです。

 

スワーミー・メーダサーナンダの答え:あなたが宝石を買いたいとします。誰かがあなたを巨大なデパートに案内します。そのデパートでは、一つのフロアはダイヤモンド、別のフロアは金の宝石、また別のフロアは銀などの宝石が置かれています。私にとってバガヴァッド・ギーターは、すべての詩節が宝石のデパートのようなものです。ですので、どの詩節が他の詩節よりも優れているかと聞かれても、答えるのが非常に難しいです。第2章以降は、すべての詩節が霊的な宝石です。しかし、どうしてもというのであれば、私は次の二つの詩節を選びます。

 

uddhared ātmanātmāna nātmānam avasādayet

ātmaiva hyātmano bandhur ātmaiva ripur ātmana

 

ウッダレード アートマナートマーナム ナートマーナン アヴァサーダイェート/

アートマイヴァ ヒ アートマノー バンドゥル アートマイヴァ リプル アートマナハ//

 

人は自分の心で自分を向上させ、決して下落させてはいけない。

何故なら、心は自分にとっての親友でもあり、かつまた同時に仇敵でもあるからだ。BG6.5

 

tasmāt sarveu kāleu mām anusmara yudhya cha

mayy arpita-mano-buddhir mām evaiyasy asaśaya

 

タスマート サルヴェーシュ カーレーシュ マーム アヌスマラ ユッデャ チャ /

マイサルピタ・マノ・ブッディル マーム エヴァイッシヤシ アサンシャヤハ // 

 

故に、君はいつも私のことを想いながら戦いなさい。

心も知性も私にしっかと結び付けておきさえすれば、君は疑いなく私の元へと到達する。BG8.7 

 

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日印関係のセミナー

 

2024126日、慶應義塾大学三田キャンパスでセミナーが開催された。スワーミー・メーダサーナンダは招待講演者の一人としてスピーチをおこなった。

(イベントの写真はPDFファイルにあります)

 

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忘れられない物語

 

「忍耐 - 聖性の試練」

 

かつて、ある霊的求道者が聖者の元へ行き、「師よ、神のお姿を見る方法を教えてください」と言った。聖者は「世間から逃れて暮らして丸一年間、途切れることなく祈りに専念しなさい」とアドバイスした。さらに「一年が終わったら、自分のエゴを完全に抑えて消滅させた後、沐浴をしてから私のところへ来なさい」とアドバイスした。

 

求道者は真剣に祈り始めた。聖者の小屋の周りを掃除するための掃除人が来ていた。求道者が1年間の修行を終える日、聖者はその掃除人を呼び寄せ、求道者が住んでいる場所を指さして言った。「あそこには神を礼拝している者がいる。今朝、彼が沐浴を終えるのを見計らって、ほうきで彼に埃をかけておくれ」

 

掃除人は言われた通りにすると、求道者はたいそう怒った。怒り狂って掃除人を追いかけ、殴りつけた。「この悪党が私を埃まみれにした」と言い、二度目の沐浴をしてから聖者の庵に行った。「師よ、あなたに教えを乞うてから丸一年が経ちました。主の御姿を拝見する特権を賜ってもよろしいでしょうか?」

 

聖者は答えた。「子供よ、お前の心はまだ鎮まっておらぬ。今でも怒りに駆られて毒蛇のように噛みつくではないか。もう一年間礼拝をして、心を滅しなさい」

 

修行僧は再び隠遁し、もう一年間祈りを捧げた。二年目が終わる日、聖者が掃除人に「あの求道者が沐浴を終えたら、ほうきで触っておくれ」と言い、掃除人は言いつけ通りにした。今回、求道者は掃除人を追いかけて殴ることはせず、代わりに厳しい言葉で叱責した。それから沐浴をし直してから、神のヴィジョンを願うために聖者のところへ行った。聖者は言った。「お前の心という蛇は、今もひどくシュー、シュー言っている。心という蛇を殺さずに神を見ることができると思うのか。もう一年間、祈りの修行に専念しなさい」

 

今回、求道者は強い決意で霊性の実践に挑んだ。修行三年目を終える日、聖者は掃除人に「朝に集めた泥を全部求道者に投げつけておくれ」と言った。掃除人は言われた通りにしたが、今や求道者は怒りを克服していた。掃除人の前で頭を下げて謙虚にこう言った。「兄弟よ、あなたは私に大きな恩恵を与えてくださいました。あなたがこのようにしてくださらなかったら、怒りの束縛からどうやって逃れることができたでしょう。心から感謝します」

 

それから、もう一度求道者は聖者に近づいた。聖者は彼に祝福を与え、イニシエーションを授けた。求道者は師のアドバイスに従って厳しい霊的実践を行い、すぐに主のヴィジョンを得た。

 

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今月の思想

 

一つだけ言います。

心に平安が欲しいなら、他者の欠点を見つけてはいけません。

それよりは、自分の欠点を見ることを学びなさい。世界全体を自分のものにする方法を学びましょう。我が子よ、他人などいません。

この世界全体があなた自身なのです。

…ホーリー・マザー・シュリー・サーラダー・デーヴィー

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