ヴェーダーンタ協会ニュースレター(日本語版)
日本ヴェーターンタ協会の最新情報
2025年2月 第23 巻 第2号
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かく語りき――聖人の言葉
「見ておくれ! ナレンがここにいるよ。見て! 見て! ああ、彼はなんという深い洞察力を持っていることか! それは燦然と輝く知識の果てしない海のようだ! 母なるマハーマーヤーご自身でさえ、彼の 10 フィート以内に近づくことはできないのだよ! 彼女は、ナレンに授けたまさにその栄光によって、立ち入りを禁じられているのだから!」
…シュリー・ラーマクリシュナ
心が弱い人はアートマンに到達できない。バクタを志す人は陽気でなければならない。忍耐強いのは明るい心である。何千もの困難を切り抜けるのは強い心だ。
…スワーミー・ヴィヴェーカーナンダ
インドを知りたければ、ヴィヴェーカーナンダを学びなさい。彼の中では、すべてが肯定的で、否定的なものは何もない。
…ラビンドラナート・タゴール
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目次
・かく語りき――聖人の言葉
・お知らせ
・2025年4月の生誕日
・2024年12月15日 月例講話
三種類の喜び
スワーミー・メーダサーナンダ
・2024年12月24日 クリスマス礼拝
主イエスの教え
レオナルド・アルヴァレズ
・忘れられない物語
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お知らせ
・各プログラムに参加を希望される方は、協会までご一報ください。
・日本ヴェーダーンタ協会の行事予定はホームページをご確認ください。
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ヴィッシュダ・シッダーンタ(Vishuddha Siddhanta)暦では、2025年 4月に生誕
日はありません
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「三種類の喜び」
スワーミー・メーダサーナンダ
今日の話のテーマは「喜び」です。私たち一人一人、世俗的であろうが霊的であろうが、男性女性、金持ち貧乏に関係なく、私たちの行動のほとんどの動機は喜びです。もし喜びを得る可能性がなければ、人は人生を続けたいとは思わないでしょう。
さて、子どもたちが試験前に長時間勉強するとき、喜びを感じるでしょうか? 多くの企業では研修生に対して厳しい研修プログラムを用意していますが、研修生は研修中に喜びを感じるでしょうか? また、妊婦のことを考えてみてください。出産前、彼女はものすごい陣痛を経験しますが、その痛みを楽しんでいるでしょうか? しかし、子どもが生まれた後には喜びがあります。これまで述べたすべてのケースで、人は知覚できる喜びを得るために、苦しみを経験するのです。学生は、試験で良い成績をとることで喜びを得ることを期待して今、一生懸命勉強し、妊婦は、子どもの顔を見るという喜びのために陣痛を経験します。おいしいものを食べたり、良い映画を見たり、趣味にいそしんだり、観光に出かけたりするのは、すべて喜びを得るためです。科学者は昼夜を問わず研究室でコツコツ働きます。そして何か驚くべき発見があると、大きな喜びが生まれます。
私たちは、想像していた喜びと実際の喜びが必ずしも一致しない、という経験をよくします。念願が成就すると幸せになると想像することもありますが、多くの場合、反対のことが起こります。そして、喜びと苦しみの量を比較すると、その割合は苦しみの量が喜びの量を上回ることがしばしばあります。しかし、皮肉なことに、ほんの少しの喜びを期待して、ほとんどすべての人がそれを追い求め、そのために働きます。なぜでしょうか? この質問に対する哲学的な答えは、私たちは本質的にサット・チット・アーナンダであるということです。アーナンダ(至福)は私たちの本性なので、喜びを得ようとする衝動が私たちの内側に深く根付いています。シャンカラーチャーリアが作った「ニルヴァーナ・シャタカム」には、「チダナンダ・ルーパ・シヴォーハム・シヴォーハム(私は、本性が意識と至福であるシヴァである)」というフレーズが何度も登場します。
タイッティーリヤ・ウパニシャドには、ヴァルナの息子であり弟子でもあるブリグがヴァルナに「ブラフマンとは何ですか」と尋ねます。ヴァルナは「食べ物がブラフマンである」と答えました。ブリグはそのことについて瞑想しましたが、ブラフマンは永遠で無限である、という基準を食べ物は満たしていませんでした。次にヴァルナは「プラーナがブラフマンである」と教えました。ブリグがそのことについて瞑想すると、プラーナは弱まったり強まることもあるし、時には体にプラーナが全くないこともあるので、プラーナはブラフマンではあり得ないという結論に達しました。最終的にヴァルナは「アーナンダがブラフマンである」と答えました。
ānando brahmeti vyajānāt.
ānandādhyeva khalvimāni bhūtāni jāyante.
ānandena jātāni jīvanti.
ānandaṃ prayantyabhisaṃviśantīti.
アーナンド・ブラフメティ・ヴィヤジャーナート
アーナンダーデャーヴァ カルヴィマーニ ブーターニ ジャーヤテ
アーナンデーナ ジャーターニ ジーヴァンティ
アーナンダム プラヤンテャビサンヴィシャンティーティ。
彼は、至福(アーナンダ)がブラフマンであることを知った。その至福からすべてのものは生まれ、生まれると至福によって維持され、死後は至福へと帰入するからである。
(タイッティーリヤ・ウパニシャド3.6)
ほとんどの人は、ブラフマンの経験から生じる霊的喜びについて何も知りません。私たちのほとんどは、感覚から来る喜びを求めています。おいしいものを食べたり、お酒を飲んだりすると味覚が満たされ、映画を観ると目が満たされ、音楽を聴くと耳が満たされ、香水を使うと嗅覚が満たされます。感覚から得られる喜びはしばらく続きますが、後に問題が起こります。『シュリーマッド・バーガヴァタム』には、人間以外の24種類の生き物から霊的生活について学んだアヴァドゥータについて書かれています。アヴァドゥータはそれらを第二のグルと言いました。
動物はある感覚に対する執着のために困難に陥ります。たとえば、鹿は甘い音に魅了されます。ハンターはそれを利用して優しく笛を吹きます。鹿はその笛の音を聞いて走って来るので、ハンターは簡単に鹿を捕まえることができます。
雄象は雌象の触り心地が大好きです。そこで象猟師たちには雌象をペットとして飼う習慣があります。猟師は雌象を罠にして雄象を捕まえるのです。ペットの雌象が雄象の近くのジャングルを歩き回って草を食べていると、雄象が近づいて雌象に触れます。そのとき猟師は雄象を捕まえるのです。
托鉢僧アヴァドゥータは、これらの動物からこれらすべての教訓を学びました。
識別すれば、ほとんどの場合、感覚的な喜びから得られる実際の喜びは、想像している喜びに遠く及ばないことが分かります。たとえば、景色の美しい場所への旅行を計画して、豪華なホテルを予約したとします。しかし、そこに到着すると土砂降りで外出ができませんでした。望みが叶わずに帰宅したとき、私たちがどれほどがっかりしているかは想像に難くありません。
病院で働いていた医師である僧侶が、ある思い出を語ってくれました。病院で働いていた時、その医師は瀕死の若い女性に会いました。しかし彼女は「私はとても結婚したいので死にたくありません」と言いました。彼女の結婚したいという欲望はまだ叶っていなかったからです。
その医者は、睡眠薬を40錠も飲んで病院に運ばれてきた別の女性にも会いました。医者が理由を尋ねると、「私はこれまでに7回自殺を試みたのですが成功しませんでした。もうどんなお医者さんも私を治療できないように、このような思い切った行動をとりました」と言いました。自殺したい理由を尋ねると、「人生で誰からも愛されたことがないのです。だからもう生きたくありません」と答えました。このように、私たちの期待している喜びは常に叶うわけではなく、多くの場合、大きな挫折感を覚えます。さらに、感覚から得られる喜びは長くは続きません。最初は喜びを感じますが、だんだんと減っていきます。誰かを愛するとき、最初は強い好意を感じますが、だんだんと弱まっていきます。ある心理学者は「愛があるところには、憎しみの要素が隠れている」と言います。愛はいつでも憎しみに変わる可能性があります。愛も憎しみも感情だからです。そして快楽には反動があります。バルトリハリ[古代インドの哲学者]はこう言います。
bhoge roga-bhayaṃ
kule cyuti-bhayaṃ vitte nṛpālād-bhayaṃ
māne dainya-bhayaṃ bale ripu-bhayaṃ rūpe jarāyā bhayam ।
śāstre vādi-bhayaṃ guṇe khala-bhayaṃ kāye kṛtāntād-bhayaṃ
sarvaṃ vastu bhayānvitaṃ bhuvi nṛṇāṃ vairāgyam-evābhayam ॥
ボーゲ ラーガ・バヤン クレ チュティ・バヤン ヴィッテ ンルパーラード・バヤン
マーネ ダイニャ・バヤン バレ リプ・バヤン ルーペ ジャラーヤー・バヤン
シャーストレ ヴァーディ・バヤン グネ カラ・バヤン カーイェ クリターンタード・バヤン
サルヴァン ヴァストゥ バヤーンヴィタン ブヴィ ンルナーム ヴァイラーギャン エヴァーバヤン
快楽のあるところには病気への恐れがあり、家柄には没落への恐れ、富には王(支配者)への恐れ、名声には屈辱への恐れ、権力には敵や対抗者への恐れ、美しさには老いへの恐れ、聖典の知識には博学な反対者への恐れ、美徳には邪悪な中傷者への恐れ、肉体には死への恐れがある。
人間にとって、この世のあらゆることは恐れと結びついている。ヴァイラーギヤ(所有欲、快楽に執着しないこと)だけが恐れのない状態を与えてくれる。
(ヴァイラーギャ シャタカム)
感覚的な喜びのもう一つの事実は、私たちが常に新しい楽しみの源を探し求めることです。私たちはただ一つの楽しみだけでは満足できないからです。
ヤジャーティ王の物語があります。彼は 6 万年もの間、人生を謳歌していました。ある日、聖者の呪いにより彼の身体は老化し始めました。彼は息子たちに若さを貸してほしいと頼みました。彼には 3 人の息子がおり、最初の 2 人の息子は断りましたが、末っ子がついに、父親に若さを貸すことに同意しました。ヤジャーティはさらに若さの日々を楽しみ、そして結論に達しました。その結論を彼は次の詩に記しました。
na jātu kāmaḥ kāmānām upabhogena śāṁyati
haviṣā kṛṣṇa-vartmeva bhūya evābhivardhate
ナ ジャートゥ カーマ カーマーナム ウパボゲナ シャームヤティ
ハヴィシャー クリシュナ・ヴァルトメヴァ ブーヤ エヴァービヴァルダテ
火にバター(ギー)を注ぐと、火は弱まるどころかますます激しくなるように、楽しみを続けながら情欲を止めようとする努力は決して成功しない。(実際、人は自発的に物質的な欲望をやめなければならない) [シュリーマッド・バーガヴァタム9.19.14]
さて、なぜ私たちの欲望は満たされないのですか? なぜ感覚的な喜びは欲求不満に終わるのでしょう?
まず第一に、喜びの源についての私たちの基本的な認識が間違っています。私たちの本性はサット・チット・アーナンダです。「アーナンダ」とは「無限で永遠で絶対的な喜び」です。しかし、私たちが有限なものの中に探している喜びは、そのような最高のレベルの喜びではありません。無限で永遠で絶対の喜びを探すなら、私たちは自分の内側から探し始めなければならないのです。東京に行きたいと思って大阪に向かって車を走らせても、東京にはたどり着けません。さらに、私たちの楽しみや喜びの対象は有限で一時的なものです。これらの理由から、外側の楽しみから得られる喜びは、欲求不満に終わります。
残念ながら、この理解は人生の終わりに、より高い喜びを得るための努力をする力がなくなったときに、私たちの意識に芽生えます。これがマーヤーです。それ以前でも、幸せと悲しみ、悲しみと幸せという経験をするとき、ほんの少しの喜びを期待して、私たちはそれを追い求め続け、ほとんどの場合、挫折感を覚えます。しかし、ようやくいくらかの喜びを得ると、それまでに経験したすべての苦しみを忘れてしまいます。悲劇的なことに、聖典を研究する人やこれらの講義を聞くような人々も、一時的なものが私たちに永続的な満足を与えないことを知った後でも、一時的なものからの楽しみを求めることをやめません。なぜ私たちには強いやる気が欠けているのでしょうか。なぜ私たちは真剣に内なる喜びを探さないのでしょうか。私たちの多くは目標も、目標に到達する道も知っているのに、なぜやる気を欠くのでしょうか。
有限で一時的な外の世界で私たちが見つける喜びは「ヴィシャヤーナンダ」と呼ばれます。バガヴァッド・ギーターによれば、これはタマス的スカまたはラジャス的スカのいずれかです。バガヴァッド・ギーターの第 18 章には、サットワ的スカ、ラジャス的スカ、タマス的スカについて述べられています。スカは「喜び」を意味します。サットワ的スカの源は内側にあり、他の二つの源は外側にあります。シュリー・ラーマクリシュナはさらに「バジャナーナンダ」と「ブラフマーナンダ」について言及しています。バジャナとは、神の名を繰り返し唱えること、神について話すこと、聖典や神の教えを読むこと、賛歌を歌ったり聞いたりすること、神や神の信者のお世話をすることなど、信心深い行為の実践を意味します。これらのすべてはバジャナーナンダへ導きます。
正しい目標を知り、望んでいる結果に至る道を理解するだけでは十分ではありません。努力し、働かなければならないのです。シュリー・ラーマクリシュナは、バジャナーナンダから始めなさいとおっしゃいました。また、同時に、感覚的な喜びは永続的な幸福をもたらさないことを識別しなければなりません。感覚的喜びを手放した後、神の名を唱え、神の神聖なお姿を瞑想し、神の生涯と教えを聞き、神と神の信者に奉仕することで、内なる喜びを得るよう努力しなければなりません。これらはバジャナーナンダを得るための道を開きます。
私たちは神への愛を育て、心を神に集中させなければなりません。これらは準備段階です。一時的な楽しみを手放すだけでは十分ではありません。私たちの心は栄養を得られる食べ物を求めています。ですから、私たちは心に代わりのものを与えなければなりません。それが信仰の実践です。バジャナーナンダはブラフマーナンダへの第一歩であり、準備段階です。私たちは神への愛を育てなければなりません。それが終わりではありません。最後はブラフマーナンダです。神への思いを絶えず巡らすと、ブラフマンを悟り、ブラフマーナンダに到達します。バガヴァッド・ギーターによれば、それがサットワ的スカです。以下はギーターからそれに関連する節です。
bāhya-sparśeṣvasaktātmā vindatyātmani yat sukham
sa brahma-yoga-yuktātmā sukham akṣayam aśhnute
バーッヒャ・スパルシェーシュ アサクタートマー ヴィンダティ アートマニ ヤット スカム
サ ブラフマ・ヨーガ・ユクタート マー スカン アクシャヤン アシュヌテー
外界の感覚的快楽に心惹かれることなく、常に内なる真我(アートマ)の楽しみに浸っている人は、常に至高者(ブラフマン)に心を集中し、限りなき幸福を永遠に味わっている。5.21
sukham ātyantikaṁ yat tad buddhi-grāhyam atīndriyam
vetti yatra na c’aivāyaṁ sthitaś calati tattvataḥ
スカム アーッテャンティカン ヤッ タド ブッディ・グラーッヒャム アティーンドリヤム
ヴェーッティ ヤットラ ナ チャイヴァーヤン スティタシュ チャラティ タットヴァタハ
その境地にある人は、普通の感覚ではなく純粋の知性によってのみ感じ得る最上の歓喜を味わうこととなり、真理から決して離れることはない。6.21
sukhaṁ tu idānīṁ tri-vidhaṁ śṛiṇu me bharata’rṣabha
abhyāsād ramate yatra duḥkhāntaṁ ca nigacchati
スカン トゥ イダーニーン トリ・ヴィダン シュリヌ メー バラタルシャバ
アッビャーサード ラマテー ヤットラ ドゥフカーンタン チャ ニガッチャティ
バーラタ族で最も秀れた者(アルジュナ)よ!長い修練を経てそれを獲得することができ、それによって苦しみが消えてしまうような三種類の幸福について、私の説明を聞きなさい。18.36
yattadagre viṣamiva pariṇāme’mṛtopamam
tatsukhaṃ sāttvikaṃ proktamātmabuddhiprasādajam
ヤッ タド アグレー ヴィシャム イヴァ パリナーメームリトーパマム
タッ スカン サーットヴィカン プロークタム アートマ・ブッディ・プラサーダ・ジャム
初めは毒薬のように苦しくても、終わりには甘露となるような、真我を悟る清純な知性から生じる喜びは、サットワ的幸福と言われる。18.37
サットワ的スカであるブラフマーナンダは内側から来ます。そのためには、私たちは奮闘努力しなければなりません。それは、最初は毒のようですが、長い目で見ればブラフマーナンダを与えます。しかし、ラジャス的スカとタマス的スカは正反対です。最初は甘露のようですが、最後には悲しみをもたらします。つまり「目先の満足」対「長期的な満足」です。識別的な心は常にこのように考えます。
サンスクリット語には「プレーヤ」と「シュレーヤ」という二つの言葉があります。「プレーヤ」は「短期的な楽しみ」つまり当座の喜びや満足感に導くものです。しかし、この喜びはつかの間のもので、永続的な幸福や満足にほとんどつながりません。「シュレーヤ」とは「究極的に良いこと」つまり、長期的な幸福、霊的成長、満足に導きます。
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逗子本館 クリスマスイヴ礼拝
「主イエスの教え」
レオナルド・アルヴァレズ
主イエスは2024年前にベツレヘムでお生まれになりました。ユダヤ人は救世主(メサイア)が彼らを世俗的な困難から救い出し、新たな黄金時代へと導いてくれるのを待ち望んでいました。当時、イスラエルはローマの植民地であり、700年間、アッシリア帝国、バビロニア帝国、ギリシャ帝国などに植民地化されていました。繁栄はしているものの世俗的な文化や人々に囲まれ、侵略されていたので、ユダヤ人の霊的アイデンティティは脅かされていました。バガヴァッド・ギーターには、「正法(ダルマ)が実践されなくなり、邪法(アダルマ)が世にはびこった時、私は姿をとってあらわれる」(4.7)とあります。まさにその時がユダヤ人に訪れていた時期でした。
聖霊によって[聖母マリアの胎内に]宿り、神聖で質素な馬小屋で生まれた主イエスがこの世に来られたのは、この世を共に苦しみ、この世を救うためです。幼い頃から非常に聡明で、神殿内で教え、複雑な神学上の質問にも簡単に答えているのを見て、皆が主イエスの智慧に驚嘆していました(ルカによる福音書 2:41-52)。 13歳から30歳までの間、イスラエルでは主イエスがどこへ行ったのか知っている人は誰もいませんでした。福音書には主イエスが野獣たちと一緒に荒野に住んでいたと書かれています。イエスが一人または複数の霊的指導者の指導のもとで霊的に完全に成熟できる場所へ行ったことはほぼ確実です。主イエスがインドのカシミール地方を訪れたという人もいます。シュリー・ラーマクリシュナやお釈迦様の生涯をみると、彼らも霊的潜在能力を完全に発揮するために指導者の助けを借りなければなりませんでした。主イエスは訓練を終え、30歳でイスラエルに戻りました。キリスト[頭上に油を注がれた者]として、それ以降長期にわたって世界の歴史と文化に革新をもたらす3年間の宣教活動の準備が整ったのです。
主イエスの教えの中でも最も崇高なものは、山上の垂訓の中にあります。これらの教えは主イエスの宣教活動の初期に説かれています。主イエスの神聖な磁力は非常に強かったので、何千人もの人々が主イエスの教えを聞くために群がりました。これらの教えはガリラヤ湖を見下ろす丘の上で説かれました。ここではそのうちの二つを重点的に見ていきたいと思います。一つ目は、「心の貧しい人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである」(マタイによる福音書 5:3)です。
さて、「天の国」とは何か、から始めましょう。ユダヤ人は黄金のエルサレムという物理的な新しい時代を待ち望んでいましたが、主イエスは何度も「わたしの国は、この世には属していない」(ヨハネ18:36)と断言していました。それは霊的な王国であり、「新たに生まれる」(ヨハネ3:3)ことによって、また肉欲を捨てて神だけを追い求めることによって、そこにたどり着くことができます。この王国について、再び主イエスは「あなたがたの間にある」(ルカ17:21)と宣言しました。ユダヤ教の聖書では、神が最初の人間であるアダムとイブを創造したとき、神は彼らに肉体的な性質(バサル)と神聖(霊的)な性質(ルア)の二種類の性質を与えたと言われています。最初、アダムとイブは霊的意識の方が強く、彼らには肉体意識がなく、神の命令に従うだけでした。しかし、やがて肉体的な性質が彼らを捕らえ、人類は一時的に神の状態から堕落し始めました(創世記2-3)。しかし、主イエスはものごとを元通りに戻すために来られました。そして主イエスは、霊的意識を取り戻した完全な人間である「新しいアダム」を意味します。だからこそ、主イエスは「わたしと父は一つである」(ヨハネ10:30)だけでなく、「あなたたちは神々である」(ヨハネ10:34)、「あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」(マタイ5:48)とも言うのです。これが、霊的で完全な王国[天の国]です。そのために主イエスは私たちが内側から目覚めることを望んでおられます。
この概念は、ユダヤの伝統にも見られます。「『神は世界に浸透し世界を支えているように、目には見えないが、すべてを見ている…唯一の存在、完全で純粋な存在…それゆえ、魂は、それ自体は目に見えず、到達できないが、すべてのものを見て保持する純粋で輝く存在として、体に浸透し支える』 魂の概念は、ここではすべての感覚的属性が取り除かれ、体内の神聖な力として描かれている」 (ケーラー、1918、p.217) これは、ウパニシャドの考えを思い起こさせます。「言葉で表現されず、思考器官で思考されず、視覚によって見られず、聴覚で聞けず、嗅覚で嗅げないが、言葉で表現され、思考器官で思考し、視覚によって見、聴覚で聞き、嗅覚で嗅ぐことできるもの、それがブラフマンである…それは聴覚の聴覚、思考器官の思考器官、言葉の言葉、息の息、そして視覚の視覚である。真我を感覚器官から引き離し、世間を放棄することで、賢者は不死を得る」(ケーナ・ウパニシャド I.2~9)
もう一つのポイントは「心の貧しい人は幸いである」(マタイ伝)または単に「貧しい人は幸いである」(ルカ伝)です。いずれも使用されているアラム語は「ミシカネMiskaneh(貧しい)」で、これは、霊的利益のために自発的に物理的なものを放棄する人を意味します。つまり、霊的に豊かになるために物質的に貧しくなることです。聖パウロは、真のキリスト教徒は「無一物のようで、すべてを所有しています」(コリント人への第二の手紙6.10)と言いました。しかし、この貧しさはハートの貧しさでもあります。つまり、自分の富や所有物に執着せず、他の人と分かち合うことです。たとえば、アリマタヤのヨセフは、裕福なユダヤ人の議員のメンバーでありながら熱心な信者だったので、主イエスが生きている間に多くの信者を助け、十字架刑の後ピラト[キリストの処刑を許可したユダヤの総督]から遺体を引き取って埋葬を手伝い、その後もキリスト教コミュニティに大きく貢献しました。シュリー・ラーマクリシュナにはモトゥル・バーブがおり、ホーリー・マザーにもラリトモハン・チャトパダイエという裕福でありながら非常に寛大な弟子がいました。
しかし、本当に貧しい人々もいます。神はしばしば貧しい人々の間に生まれることを選ばれるということを忘れてはなりません。その日暮らしをするのに十分なものしか持っていないと、謙虚になり、霊的な力に助けを求めたいと思うようになります。同時に、物質的な財産を失う恐れも、地位や富によって他人より優れていると感じることもありません。貧しい人々はまた、苦しみが何であるかを知っており、他の人に対してより共感的です。これにより、彼らはよりシンプルになり、より誠実な信仰を持つことができます。ある時、ホーリー・マザーがコルカタのウドボーダンに滞在していた時、ベランダに座って、夕暮れに低賃金労働者たちが家に戻ったのをご覧になりました。その時のホーリー・マザーの言葉をサラジュバラ・デーヴィーは次のように記しています。「『あの人たちは一日中働いたあとで、今は悩みを忘れてゆっくりしているのよ。貧しい人々は本当にめぐまれています』とおっしゃった。私は聖書の中のイエス・キリストの言葉をおもいだした。おなじ言葉を、今日、ホーリー・マザーからも聞いたのだ」 (『ホーリー・マザーの福音』初版209頁)
次に、山上の垂訓からの二つ目の引用は、「心の清い人たちは、幸いである、その人たちは神を見る」(マタイ5:8)です。ここで主イエスは、どうすれば心が清らかになるかを説明していませんが、他の箇所には多くの言及があります。例えば、「もし右の目や右の手が、あなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に投げ込まれない方がましである」(マタイ5:29-30)。これは、もし私たちが、霊的進歩の障害となる悪習慣や否定的な感情があるなら、それを捨てたり、それと戦ったりすることがどんなに大変であっても捨てるべきである、ということを意味します。
悪い習慣をやめるときは、それに代わる良い習慣を見つけなければならないことに気づきましょう。そうしないと、似たような、あるいはもっと悪い習慣で穴埋めをするかもしれないからです。飲酒をやめても、ヘビースモーカーになる人がいるように!主イエスは警告しています。「汚れた霊は、人から出て行くと、砂漠をうろつき、休む場所を探すが見つからない。それで、『出て来たわが家に戻ろう』と言う。戻ってみると、空き家になっており、掃除をして、整えられていた。そこで、出かけて行き、自分よりも悪いほかの七つの霊を一緒に連れて来て、中に入り込んで、住み着く。そうなると、その人の後の状態は前よりも悪くなる。」(マタイによる福音書 12:43-45)。スワーミージーは『ラージャ・ヨーガ』の中で次のように提案しています。「すべての悪い習慣は深い印象を残しているが、良い習慣によって抑えることができる。これからも良い行いをしなさい。常に神聖な思いを持ち続けなさい。それが低くて良くない印象を抑える唯一の方法である。誰であれ、希望がないなどと絶対に言わないように。なぜなら、その人はただ性格、つまり一束の習慣をあらわしているにすぎず、その習慣は新しくてより良い習慣によって、阻止することができるのだから。性格とは繰り返される習慣であり、繰り返される習慣だけが性格を変えることができる」(『ラージャ・ヨーガ』第6刷127頁)
もう一つのポイントは、[心の]清らかさとは、混じりけがなく、シンプルで、現実を直接知覚するという意味です。スワーミージーは再び、真珠がどのように形成されるかの例(『ラージャ・ヨーガ』119頁)を挙げています。異物が貝の中に入り込み、刺激を与えると、貝はそれをエナメルで覆います。[私たちに置き換えると]真実は異物ですが、私たちはそれに耐えることができず、自分の想像、期待という自分のエナメルでそれを覆ってしまいます。そのため、私たちはエナメルしか見ず、真実を見ることはありません。私たちの真実の経験は、想像したものと決して一致しないので、私たちは何度も何度も失望します。
清らかさのもう一つの意味は、シンプルさです。シュリー・ラーマクリシュナは、シンプルさは多くの苦行の後に得られる性格の美徳であるとよくおっしゃいました。シンプルな人は、心が安定しています。彼らには、これをやろうか、あれをやろうか、というヴィカルパやサンカルパがありません。私たちはよく一つのことを始めても、障害を見つけたり飽きたりすると方向を変えて新しいことを始め、また別の障害にぶつかるとまた変えるので、着実な進歩がありません。主イエスはおっしゃいました。「あなたがたは、『然り、然り』『否、否』と言いなさい。それ以上のことは、悪い者から出るのである」(マタイによる福音書 5:37)。これはどういう意味でしょうか。あなたが「はい」「私はそれをします」と言うなら、あなたはそれをしてください。あなたが「いいえ」と言うなら、あなたはそれをしてはいけません。つまり言ったことを守るのです。シュリー・ラーマクリシュナの生涯を見ると、このことを完璧に実践なさったことがわかります。日中のある時、シャンブー・マリックに、ドッキネッショルの近くにある彼の家に行くと言ったのですが、信者が大勢押し寄せてそのことをすっかり忘れていました。しかし、夕食後、夜遅くになってその言葉を思い出し、ラカル(後のスワーミー・ブラフマーナンダ)にランプを持たせて、シャンブー・マリックの家へ向かいました。家の前で一度、ラカルにシャンブーの家族がまだ起きているかどうか確かめるように頼むと、ラカルは「皆、寝ています」と言いました。そこで、シュリー・ラーマクリシュナは客間へ行き、ドアを少し開け、片足で床に触れてから戻りました。別の時、シュリー・ラーマクリシュナはこうおっしゃいました。「私がコルカタのラームの家へ行ったときのことだ。私は『ルチは食べない』と言ってしまった。食事の時間に座ると空腹だったがルチは食べないと言ったので、甘いものでお腹を満たさなければならなかったのだよ」 (『ラーマクリシュナの福音』改訂版第1刷675 頁) シュリー・ラーマクリシュナはなぜそのことにこだわったのでしょうか。シュリー・ラーマクリシュナはおっしゃいました。「真実に固守することがカリ・ユガにおける霊的なタパッシャー[苦行]である」
この点に関して主イエスもこうおしゃっています。「あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」(ヨハネ 8:32) 真実(truthfulness)の実践をしようとすれば、それがいかに難しいか、どれほどの勇気と犠牲を要するかがわかるでしょう。それは、非常に苦痛で、恥ずかしく、あるいは個人の利益に害を及ぼすかもしれません。そしてうそをつかない(truthful)ためには、貪欲、情欲、嫉妬を避け、自制心と他のすべての善を実践しなければならいのです。
さて、キリスト教徒はこれを日々の生活でどのように実践するのでしょうか。初期のキリスト教徒のコミュニティは、高弟の家に集まって「規則(日々のスケジュール)」を考案し始めました。そのようなコミュニティの現存する最古の文書は、ギリシャ語で「ディダケー(教え)」と呼ばれるもので、約 8 ページに渡り、10 の戒律に従うなど、キリスト教徒が生きるべき方法がまとめられています。重要なことは、キリスト教徒は 1 日に 3 回祈り、水曜日と金曜日に週 2 回断食すべきであると書かれていることです。聖書を[ギリシャ語から]ラテン語に翻訳した聖ジェロームは、384 年に手紙の中で書いています。「キリスト教徒は睡眠中も含め常に祈るべきであるが、これを可能にするには、決まった時間に祈るべきであり、修道士は 1 日に 5 回祈るべきです。さらに、1 日に 2 ~3回聖書を読み、修道士はその日に読んだ内容を深く考えます。また、どんな行動の前や食事の前にも祈るべきです」
修道院のコミュニティが大きくなるにつれて、組織化が必要になりました。そこで、西暦 500 年頃に聖ベネディクトが規則を作りました。修道院で今日まで続いている毎日のスケジュールは次のとおりです。午前 4 時に起床し、1 時間の詠唱による祈り (Vigil) を行います。しばらく休憩した後、再び午前 5 時 30 分から 30 分間、口頭および詠唱による一連の祈り (Lauds または Matins) を行います。朝食は午前 7 時 45 分までです。8 時 45 分からは詩篇[神への賛美の詩]を朗読します。(Terce) 9 時から午後 12 時 40 分まで作業を行います。午後 1 時、修道士たちは教会に集まり、再び 10 分間詩篇を読みます。(Sext) その後、昼食をとります。午後 2 時、再び教会に集まり、別の詩篇を吟唱します。(None) 午後 5 時 20 分から祭壇に飾られた主イエスへの捧げものを30分間黙想します。午後 5 時 50 分には、教会で夕べの祈りが行われ、30 分間詩篇やその他の歌が唱えられます。午後 6 時 20 分から午後 6 時 50 分まで軽食が提供されます。午後 7 時 30 分から 15 分間の祈りが行われ(Compline)、その後全員が就寝します。フランシスコ会などの他の修道院では、午後 10 時まで起きていて、午前 4 時 30 分に起床します。真夜中に起きてしばらく祈る人もいます。つまり、修道院コミュニティでは通常 1 日 4 ~ 5 時間祈っています。
ホーリー・マザーも「心を落ち着かせるために朝と夕方に瞑想し、夕方には自分の人生が霊的理想に沿って進んでいるかどうかを振り返り、そうでない場合はそれを正すように努力すべきです」と助言されました。総括すると、私たちはたとえ短時間であっても、瞑想、祈り、聖典を読む、ということを可能な限り生活に取り入れることで、これらの伝統からインスピレーションを得ることができます。というのは、これは自分の心を霊的理想に定め、それに向かって前進するのに役立つからです。
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忘れられない物語
「神の智慧」
すべての創造物には目的がある。すべての神聖な行為は究極の善に向けられている。
アーチャーリヤ・シュリー・アハンカール・ケシャリは非常に博学な人物であった。彼の弁舌は諸刃の剣のようで、討論中に相手を千々に切り刻むことができた。彼は宮廷で王室教師を務めていたので、君主への冗長な激賞に雷鳴を落とすこともできた。
王はアーチャーリヤに広い庭園を贈った。そこには学者の味覚を刺激するさまざまな種類のおいしい果物が常に用意されていた。また、多種の花壇もあった。それは冬の日であった。昼食後、アーチャーリヤは庭を散歩することにした。実をつける多様な木々の間を歩きながら、彼は神の創造物について思いを巡らせた。「かぼちゃはなんと大きくわら屋根全体に広がっているのだろう。それなのに、つるはこんなに細い。この木は実に祝福されている!」彼は歩きながら、さまざまな種類の果物や、異なる色合いの花々について熟考していた。
「やっとベンチが見つかった。ああ疲れた!」と彼はつぶやき、巨大なガジュマルの老木の下にあるベンチに腰を下ろした。見上げると、巨木の力強い枝と密集した葉が広い範囲に広がっているのが見えた。「なんて残念なことだろう!」とアーチャーリヤは思った。「こんなに大きくて頑丈な木で、葉もたくさんあるのに残念なことに実がこんなにちっぽけじゃないか! あっちではあんなに細いツル植物に巨大なカボチャを付けて、こっちではほとんど収穫のない木を創造しておられる、神はなんて愚かなのだ」
アーチャーリヤは、このように考えながら眠りに落ちた。午後のそよ風は心地よく、時が刻まれるにつれて、学識のある男は小気味良く、こっくりこっくり船を漕いだ。「コツン!」 小さなガジュマルの実が、アーチャーリヤの輝く頭に鋭く落ちた。彼は眠りから乱暴に起こされた。
「ああ!助かった!奇跡的に助かった!神はなんと慈悲深いことか!神の洞察力、才覚、判断力はなんと先見の明があるのだろう!」とシュリー・アハンカール・ケシャリは叫んだ。「ああ、主よ!あなたは全知であられます。もしガジュマルの実がもう少し大きかったら、私の頭は粉々に砕け散り、この肉体の存在は終わっていたでしょう」
博識な男は新たなビジョンを抱いた。彼は神に命を救われたことに心から感謝しながら家に帰った。愚か者は日々直面するさまざまな神の行為について性急に判断する。すべては確実に最善のためなのだ。すべての神の行為は究極の善に向けられている。神の行為に目的のないものはない。求道者は性急な判断をしないよう注意すべきだ。穏やかで平静な心を培い、洞察力を磨くべきである。慈悲深い神は、その行為が今のところ全く目的がなく、あなたの利益に反しているように見えるとしても、その行為のいずれにおいても決して賢明でないはずがないのだ。それらはあなたの究極の幸福のためだけにあり、間違いなく最良の目的がある。だから、常に性急な判断を避けなさい。
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今月の思想
それぞれの魂は潜在的に神聖である。
ゴールは、外と内の性質をコントロールして、この神聖さを内部にあらわすことだ。
これを働き、礼拝、心の制御、哲学のいずれか、あるいは複数、あるいはすべてによって行い、自由になりたまえ。
これが宗教のすべてである。教理、教義、儀式、書物、寺院、形式などは、二次的な細事にすぎない。
…スワーミー・ヴィヴェーカーナンダ
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